2017年7月2日日曜日

『気まぐれの夏』の読みで悶絶なう

目下、いろいろな仕事の合間を縫って、ヴラジスラフ・ヴァンチュラ大先生の『気まぐれの夏』の読解をちびりちびりと進めているところなのですが、この小説の語り口について一言だけ印象を申し上げておきますと、あの小説の大半は登場人物の会話をそのまま引用した直接話法で出来ていて、語り手は登場人物の会話のつなぎを行ったりしつつ、そこへ寸鉄人を刺すという感じの註釈を入れたりしています(註釈の入れ方が、やはり前近代の小説や日本で言えば『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話を読んでいるような感じがして、妙に面白かったりします)。しかも、語り手が登場人物の会話を引用する際には、引用符が用いられることがありません(現地で普及している版では、読みやすさを配慮してか、引用符が付けられています。ですが、学問的な校訂がなされた全集版では、引用符がすべて取り払われています)。そのためでしょうか、登場人物が話している部分と語り手が語っている部分とが融合された感じの字面になっています。

登場人物の言葉に注目してみると、人物ごとに言葉の性格が異なっているものの、どの人物も日常の会話ではあり得ないような豪華絢爛たる饒舌——1920年代に書かれたものとは到底思えないものすごく古めかしい語彙や形態論や統語法のコンボと卑俗極まりない表現、そしてどうやらギリシアやローマの古典や聖書や近代ヨーロッパのさまざまな文学作品などを踏まえた感じがする物言いとの楽しい(そして、それゆえに読解を進めてゆくのにものすごく難儀する)アマルガムとでも形容するしかない代物——を延々と繰り広げてゆきます。内容を要約すると本当にしょーもない話の連続なので、「真面目」な内容を持った話を好まれる方だと真っ先に腹を立てられることかと思います。ですが、そうした「しょーもない」内容だからこそ、登場人物があるモティーフに基いた観念連合を過剰なまでに派手派手しい言葉でこれでもかこれでもかと言わんばかりのノリで紡ぎ出してゆくさまのおかしみがいやが応にも伝わってきます。その様子は、テーマが下らなければ下らないほど筆や体がノリノリになってゆく作曲家や即興演奏の大家をどこか彷彿とさせます。

そんなわけで、原文を読んでいると(あるいは、解読してみると)、まるで高座に上がった落語家や浪曲師がさまざまな声色を駆使して登場人物の会話を再現しているかのような感じがしてきます。このような摩訶不思議な言葉で織り上げられた作品なのですから、黙読だけで済ませてしまうのは寂しいものです。やはり朗読されて然るべき内容のものですし、新作落語に積極的に取り組まれている噺家や、あるいは浪曲師の方にも取り上げていただけるような、生きの良いノリノリの訳文を作り上げることを目指してゆこうと思います。乞御期待。

追記: 落語や浪曲のようだと思ったのですが、ペダンチックでもあり卑俗でもある饒舌な語り芸のようだという点では、日本語で書かれた小説だとやはり漱石の『我輩は猫である』に少しばかり似ているのかもしれません。



さらに追記: わたしの日本語訳が待てない! という方には、英訳や仏訳がすでにチェコで出版されているので、そちらをお勧め致します。しかも、電子書籍版も出ています。買わない手などありません。ただし、英訳も原文に合わせてかなり難度が高い語彙やら構文やらが駆使されたものなので、それなりの覚悟を決めた上で手を出された方が賢明かと思います。


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