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7月, 2017の投稿を表示しています

のぶおくんは今日も安定運行、あるいは文学部出身者をなめんなバカ!

マスコミを極左化させる「文学部バイアス」

文学部出身者のみなさん、のぶおくんによれば文学部出身者には独特なバイアスがかかっているらしいですよー! お互い気を付けましょう!

それはともかく、たったこれだけの短い文章の中で、のぶおくんが考える「極左」と「左翼」との違いが何なのかまったく分からないという、実に滑稽なことになってしまっている。「極左化した」ワイドショーのコメンテーターが奉じているのは「昔の極左暴力主義」ではないと言ったのちに、「社会党の「非武装中立」のような日本独特のガラパゴス平和主義」と定義し直している。ここからは、この種の平和主義こそがのぶおくんにとっての「極左化」の背景にある「極左」という概念が意味する内容なのであろうことが推測される。だが、基本的に「極左」とされる政治団体や活動家は、マルクスの思想やそこから派生した共産主義思想、あるいはアナキズムの思想を奉じるとともに、自らの政治的な理念を実現させるためならばテロリズムなどの非合法の暴力行為に訴えてでも現在の政府を転覆させることをも良しとしているものではなかったのか。ところが、彼が「極左」呼ばわりしようとしている(らしい)「「非武装中立」のような日本独自のガラパゴス平和主義」なるものを文字通り解釈すれば、こうした考えを奉じている人や団体は、自身の目的を遂行するために国家に対して非合法の暴力行為をふるうことを良しとはしないはずだ。むしろ本物の「極左」から見れば、こうした考えを奉じる者たちはぬるま湯につかった「右翼の日和見主義者」でしかなかろう。のぶおくんが考えているであろう「極左」と「極左」という言葉に関する一般的な意味合いとをこんな感じでちょっと比べてみただけでも、矛盾だらけであることが露呈してしまう。

とまあ、のぶおくんのこの文章での物言いのおかしさを理解するには、別に安全保障やマスコミ研究、あるいは政治思想史の専門家である必要などまったくない。それこそではないが、言葉の真の意味での事物についての「批判的」な認識を基盤とする、文学部で行われているさまざまな学問の方法論に関する知識と実践の経験——友人が戯れに思い付いた「文学部パワー」という言葉を借用しても良かろう——さえあれば、鼻クソをほじったりビールを飲んだりしながらでもすぐに分かってしまうし、今ご覧になっているような駄文もいとも簡単に書けてしま…

Vydal monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád!

Boris Blahak, Franz Kafkas Literatursprache Deutsch im Kontext des Prager Multilingualismus

Jsem velice šťastný tím, že jsem si uvědomil toho, že vydal svou monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád Boris, jenž učil němčinu na pedagogické fakultě Masarykovy univerzity v Brně během mého studijního pobytu v 2001-3 a je ke mně od té doby stále nesmírně laskavý. Nikdy nezapomenu, jak mě uklidňoval, kdykoliv bylo mi smutno tím, že na ulicích mne uráželi jen proto, že jsem "žlutá opice" z Asie. Rád bych si proto koupil exemplář jeho knihy, ačkoliv jsem velmi špatný čtenář německých textů vůbec! Dejte mi vypít, abych ho oslavil!


【書き仕事】『アステイオン』86号にミラン・クンデラの対談記事の拙訳を掲載していただけました

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すでに二月近く経ってしまいましたが、宣伝です。(我ながら、宣伝下手です……。)



ミラン・クンデラとチェコ放送で文芸番組のディレクターを務めていらしたトマーシュ・セドラーチェクさん(経済学者のトマーシュ・セドラーチェクさんとは、まったくの別人です)との対談記事「にわかに信じ難い運命」をわたしがチェコ語から日本語へ訳したものを、『アステイオン』86号に掲載していただきました。昨今の出版事情に鑑みると、単行本への収録ということは絶望的でしょうから、クンデラの小説や現代文学がお好きな方には、今回の『アステイオン』を購入されることを強く、強くおすすめ致します。政治学者の池内恵さんも書かれているように、今回の『アステイオン』は採算度外視の実に濃い号に仕上がっています。是非とも買ってください。これだけでも1000円を出すのに十分過ぎる価値があります。

件の対談記事は、ブルノにあるアトランティス社が2004年に刊行した『私のヤナーチェク』という本のトリを飾るものとして出版されたものです。実は、この本がチェコで刊行された直後に入手して対談記事の全訳を作成し、いろいろな出版社に持ち込んでもたものの、なかなか色良い返事がいただけずにそのままにしてしまっておりました。紆余曲折の末に『アステイオン』に掲載していただけて、本当に良かったです(紆余曲折の具体的な内容については、いろいろと差し障りのある話が多いので、公の場では今後とも一切触れないつもりです)。

『アステイオン』の惹句にも記したことではありますが、この対談の内容は大まかには『裏切られた遺言』での議論をチェコ共和国在住の一般の聴取者向けに分かりやすく要約したものだとも言えます。とは言え、それだけの意義にはとどまりません。『裏切られた遺言』においてかつて開陳していたマックス・ブロートに対する厳しい(あるいは、苛烈と言っても過言ではない)評価をよりポジティヴなものに改めています。クンデラがブロートの評価を転換していたことは、少なくとも日本語圏の読書界ではまだあまり知られていないことかと思います(この点についてだけでも、日本語に翻訳し、紹介する意義があったと考えております)。さらに言うと、クンデラは、ヤナーチェクについて語ることを通して、政治的、経済的、文化的な観点から「マイナー」あるいは「周縁」という扱いを「メインストリーム」に属して…

『気まぐれの夏』の読みで悶絶なう

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目下、いろいろな仕事の合間を縫って、ヴラジスラフ・ヴァンチュラ大先生の『気まぐれの夏』の読解をちびりちびりと進めているところなのですが、この小説の語り口について一言だけ印象を申し上げておきますと、あの小説の大半は登場人物の会話をそのまま引用した直接話法で出来ていて、語り手は登場人物の会話のつなぎを行ったりしつつ、そこへ寸鉄人を刺すという感じの註釈を入れたりしています(註釈の入れ方が、やはり前近代の小説や日本で言えば『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話を読んでいるような感じがして、妙に面白かったりします)。しかも、語り手が登場人物の会話を引用する際には、引用符が用いられることがありません(現地で普及している版では、読みやすさを配慮してか、引用符が付けられています。ですが、学問的な校訂がなされた全集版では、引用符がすべて取り払われています)。そのためでしょうか、登場人物が話している部分と語り手が語っている部分とが融合された感じの字面になっています。

登場人物の言葉に注目してみると、人物ごとに言葉の性格が異なっているものの、どの人物も日常の会話ではあり得ないような豪華絢爛たる饒舌——1920年代に書かれたものとは到底思えないものすごく古めかしい語彙や形態論や統語法のコンボと卑俗極まりない表現、そしてどうやらギリシアやローマの古典や聖書や近代ヨーロッパのさまざまな文学作品などを踏まえた感じがする物言いとの楽しい(そして、それゆえに読解を進めてゆくのにものすごく難儀する)アマルガムとでも形容するしかない代物——を延々と繰り広げてゆきます。内容を要約すると本当にしょーもない話の連続なので、「真面目」な内容を持った話を好まれる方だと真っ先に腹を立てられることかと思います。ですが、そうした「しょーもない」内容だからこそ、登場人物があるモティーフに基いた観念連合を過剰なまでに派手派手しい言葉でこれでもかこれでもかと言わんばかりのノリで紡ぎ出してゆくさまのおかしみがいやが応にも伝わってきます。その様子は、テーマが下らなければ下らないほど筆や体がノリノリになってゆく作曲家や即興演奏の大家をどこか彷彿とさせます。

そんなわけで、原文を読んでいると(あるいは、解読してみると)、まるで高座に上がった落語家や浪曲師がさまざまな声色を駆使して登場人物の会話を再現しているかのような感じがし…