2017年7月15日土曜日

Vydal monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád!

Franz Kafkas Literatursprache Deutsch im Kontext des Prager Multilingualismus

Jsem velice šťastný tím, že jsem si uvědomil toho, že vydal svou monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád Boris, jenž učil němčinu na pedagogické fakultě Masarykovy univerzity v Brně během mého studijního pobytu v 2001-3 a je ke mně od té doby stále nesmírně laskavý. Nikdy nezapomenu, jak mě uklidňoval, kdykoliv bylo mi smutno tím, že na ulicích mne uráželi jen proto, že jsem "žlutá opice" z Asie. Rád bych si proto koupil exemplář jeho knihy, ačkoliv jsem velmi špatný čtenář německých textů vůbec! Dejte mi vypít, abych ho oslavil!


2017年7月13日木曜日

『アステイオン』86号にミラン・クンデラの対談記事の拙訳を掲載していただけました

すでに二月近く経ってしまいましたが、宣伝です。(我ながら、宣伝下手です……。)



ミラン・クンデラとチェコ放送で文芸番組のディレクターを務めていらしたトマーシュ・セドラーチェクさん(経済学者であるトマーシュ・セドラーチェクさんとは、まったくの別人です)との対談記事「にわかに信じ難い運命」をわたしがチェコ語から日本語へ訳したものを、『アステイオン』86号に掲載していただきました。昨今の出版事情に鑑みると、単行本への収録ということは絶望的でしょうから、クンデラの小説や現代文学がお好きな方には、今回の『アステイオン』を購入されることを強く、強くおすすめ致します。政治学者の池内恵さんも書かれているように、今回の『アステイオン』は採算度外視の実に濃い号に仕上がっています。是非とも買ってください。これだけでも1000円を出すのに十分過ぎる価値があります。

件の対談記事は、ブルノにあるアトランティス社が2004年に刊行した『私のヤナーチェク』という本のトリを飾るものとして出版されたものです。実は、この本がチェコで刊行された直後に入手して対談記事の全訳を作成し、いろいろな出版社に持ち込んでもたものの、なかなか色良い返事がいただけずにそのままにしてしまっておりました。紆余曲折の末に『アステイオン』に掲載していただけて、本当に良かったです(紆余曲折の具体的な内容については、いろいろと差し障りのある話が多いので、公の場では今後とも一切触れないつもりです)。

『アステイオン』の惹句にも記したことではありますが、この対談の内容は大まかには『裏切られた遺言』での議論をチェコ共和国在住の一般の聴取者向けに分かりやすく要約したものだとも言えます。とは言え、それだけの意義にはとどまりません。『裏切られた遺言』においてかつて開陳していたマックス・ブロートに対する厳しい評価をよりポジティヴなものに改めています。クンデラがブロートの評価を転換していたことは、少なくとも日本語圏の読書界ではまだあまり知られていないことかと思います(この点についてだけでも、日本語に翻訳し、紹介する意義があったと考えております)。さらに言うと、クンデラは、ヤナーチェクについて語ることを通して、政治的、経済的、文化的な観点から「マイナー」あるいは「周縁」という扱いを「メインストリーム」に属している者たちから受け続けて来た地域や民族集団を出自とする芸術が背負わされてきた運命についての考察を行っています。きわめて普遍的なものがありますし、現代の日本で生きている人間にとっては彼の問題意識は実に痛切なものとして響くはずであるにもかかわらず、クンデラが提起している問題が「問題」として意識されることがきわめてまれである——というところが、この国の多数派を占めているであろう「名誉白人」の病の深さを体現しているように思えてなりません。

それはともかく、この対談の一読者としての個人的な感想に過ぎないのですが、昔から「反叙情」を唱え続けてきたはずなのに、セドラーチェク氏と言葉をやり取りしているうちに、クンデラの言葉からはこの上なく叙情的な香りが立ち上がっています。その辺もまた、『裏切られた遺言』での硬質な文章とは違うのかもしれません。

2017年7月2日日曜日

『気まぐれの夏』の読みで悶絶なう

目下、いろいろな仕事の合間を縫って、ヴラジスラフ・ヴァンチュラ大先生の『気まぐれの夏』の読解をちびりちびりと進めているところなのですが、この小説の語り口について一言だけ印象を申し上げておきますと、あの小説の大半は登場人物の会話をそのまま引用した直接話法で出来ていて、語り手は登場人物の会話のつなぎを行ったりしつつ、そこへ寸鉄人を刺すという感じの註釈を入れたりしています(註釈の入れ方が、やはり前近代の小説や日本で言えば『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話を読んでいるような感じがして、妙に面白かったりします)。しかも、語り手が登場人物の会話を引用する際には、引用符が用いられることがありません(現地で普及している版では、読みやすさを配慮してか、引用符が付けられています。ですが、学問的な校訂がなされた全集版では、引用符がすべて取り払われています)。そのためでしょうか、登場人物が話している部分と語り手が語っている部分とが融合された感じの字面になっています。

登場人物の言葉に注目してみると、人物ごとに言葉の性格が異なっているものの、どの人物も日常の会話ではあり得ないような豪華絢爛たる饒舌——1920年代に書かれたものとは到底思えないものすごく古めかしい語彙や形態論や統語法のコンボと卑俗極まりない表現、そしてどうやらギリシアやローマの古典や聖書や近代ヨーロッパのさまざまな文学作品などを踏まえた感じがする物言いとの楽しい(そして、それゆえに読解を進めてゆくのにものすごく難儀する)アマルガムとでも形容するしかない代物——を延々と繰り広げてゆきます。内容を要約すると本当にしょーもない話の連続なので、「真面目」な内容を持った話を好まれる方だと真っ先に腹を立てられることかと思います。ですが、そうした「しょーもない」内容だからこそ、登場人物があるモティーフに基いた観念連合を過剰なまでに派手派手しい言葉でこれでもかこれでもかと言わんばかりのノリで紡ぎ出してゆくさまのおかしみがいやが応にも伝わってきます。その様子は、テーマが下らなければ下らないほど筆や体がノリノリになってゆく作曲家や即興演奏の大家をどこか彷彿とさせます。

そんなわけで、原文を読んでいると(あるいは、解読してみると)、まるで高座に上がった落語家や浪曲師がさまざまな声色を駆使して登場人物の会話を再現しているかのような感じがしてきます。このような摩訶不思議な言葉で織り上げられた作品なのですから、黙読だけで済ませてしまうのは寂しいものです。やはり朗読されて然るべき内容のものですし、新作落語に積極的に取り組まれている噺家や、あるいは浪曲師の方にも取り上げていただけるような、生きの良いノリノリの訳文を作り上げることを目指してゆこうと思います。乞御期待。

追記: 落語や浪曲のようだと思ったのですが、ペダンチックでもあり卑俗でもある饒舌な語り芸のようだという点では、日本語で書かれた小説だとやはり漱石の『我輩は猫である』に少しばかり似ているのかもしれません。



さらに追記: わたしの日本語訳が待てない! という方には、英訳や仏訳がすでにチェコで出版されているので、そちらをお勧め致します。しかも、電子書籍版も出ています。買わない手などありません。ただし、英訳も原文に合わせてかなり難度が高い語彙やら構文やらが駆使されたものなので、それなりの覚悟を決めた上で手を出された方が賢明かと思います。