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【雑記】「治安維持法」再び!(怒)

「共謀罪」がスムーズに成立する背景

あの連中に投票した馬鹿な有権者を、わたしはとことん軽蔑する。わたしは、博愛主義者ではまったくない。己れの愚かさを反省しない連中には、今も昔もとことん冷たくできている(わたしなんざ、自分の不甲斐無さや馬鹿さを恥じない日など冗談抜きで一日たりともない)。というわけで、GnuPGの使い方に慣れるようにするための準備作業をぼちぼち始めようと思う。メールの検閲はすでに行われているが、郵便物の検閲もそのうち普通にやられるようになるだろうて。

「自分は大丈夫」と思えない者や同調圧力を無視する者たちが真っ先にやられてゆくのだろう。なにせ、少数派や多数派とは毛色の異なる者を「左巻き」などという極めて愚劣な身体的比喩(立派な差別用語である!)をもって馬鹿扱いした上に貶めてしまうことがまかり通っている社会だ。ついでに言うと、ネトウヨどもはこうした差別用語を悪用して、自分たちの気に入らない政権批判をする人たちを「左翼」あるいは「サヨク」呼ばわりするだけでは足りず、十把一からげに「左巻き」呼ばわりさえしている惨状もある。そう考えると、わたしのような根っからのへそ曲がりでもあり、「左巻き」でもある者などは、きわめて危ないことになりかねない。「脱日」や国籍離脱の方法も考えなければならないだろうな。

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西澤健一 オペラ『卍』世界初演(2017年11月17日)

西澤健一氏の作品を初めて耳にしたのは、チェコ留学から帰って来て大学院に復学した2003年頃のことだったと思う(正直に述べると、正確にはいつだったのか今では思い出せなくなってしまっている)。氏が開設していたウェブサイトにアップロードされていたピアノ・ソナタの自作自演音源をたまたま見付けたことが、氏の音楽を知るきっかけだったかと思う。今となっては懐しい Real Audio の低ビットレート音源で音質は悪かったものの、楽曲の骨格がとてもしっかりしている上に、実に熱い(と同時に実に暑苦しい)音楽にすっかり魅了されて、ファンになった。日本の芸術音楽の作曲家には失望することが多かったというのに、今でもこんなとてつもない才能の持ち主がいるものだ——とひたすら驚嘆し、感動したことを覚えている。また、折々に書かれた音楽やその他のことどもについての文章も内容が滅法面白い上に言葉も非常に巧みで、時間を忘れて貪り読んでいた。そんなこんなで、作品の音源とともに、ブログに載せられた文章もいつしか RSS リーダーを使って小まめにチェックするようになっていた。

西澤氏が自己紹介をする際には、「クラシックの作曲家」という言葉をしばしば用いている。現役の「クラシックの作曲家」と言えば、とかく難解で旋律や明確なリズムが存在しない訳の分からない、「音楽」と呼ぶのも憚られる代物ばかりを書いている人ではないか——という先入観を持たれる方も少なからずいらっしゃるかと思う。だが、西澤氏が現在書いている音楽は、そうしたものではまったくない。むしろ、明確な調やリズムを具えた実に美しく端正な旋律が横溢する音楽を書いている作曲家の一人である。一般にはあまり知られていないことだが、今日の芸術音楽の作曲家の中には、調性音楽をもっぱら書く人が増えつつある。こうしたことに鑑みると、現在の氏がもっぱら調性音楽を書いていることは、今となっては特段珍しいことでも何でもない。とは言え、それまでに聴いたことがあった、現役で活躍している芸術音楽の作曲家の手になる「聴きやすい」調性音楽と西澤氏が発表されている調性音楽との間には、きちんと言語化しにくいものの、どこか違ったものがあるのではないか——とずっと感じている。いわゆる「現代音楽」をかたくなに拒絶し、ありもしなかった「古き良き時代」を懐しむポーズを取っていたり、中世から今日に至るまで…

TEAC CD-P800NTのリレー音問題が見事解決!

TEACのネットワークプレーヤ CD-P800NT のファームウェアをアップデートした。ついさっきまでは、同じディレクトリに格納した音源ファイルを連続で演奏させる際には、あるファイルの再生が済んで次のファイルを再生する直前に「カチッ」というリレー音が鳴る上にポーズも入るので、実に欝陶しかった。何も期待せずにファームウェアをアップデートしてみたところ、あの音がものの見事に消えた上に、シームレスな再生も可能となった。実に喜ばしい。

仄聞したところによると、ユーザーのクレームに対してこの音は仕様ですと TEAC は言っていたとのことだ。2015年の時点で書かれたアマゾンのカスタマーレビューにも件のノイズは健在という旨が記されていたので、おそらくは2016年に出された最新のファームウェアで問題の根本的な解決が図られたのだろう(ファームウェアに関する説明には、なぜかこの問題への言及が一切なかった)。ネット上でも件の問題は動画付きで激しく批判されていたのだから、おそらくは電話などでの厳しいクレームもそれなりにたくさんあったものと思われる。

本当はユーザーに対して不手際についてきちんと謝った上でリリースすべきではなかったかと思うので、かなりモヤモヤとしてはいる。とは言え、あのプレーヤを使う上での最大のネックが解決されたことは、本当に良かった。粗大ゴミにせずに済んだどころか、この問題がなくなってNASに溜め込んだ音楽を普通に気軽に流して楽しめるようになった上に、このプレーヤを他の人にもようやく素直に勧められるようになったのも、実に喜ばしいことだ。

「ヴォイニッチ手稿」に関する新説が、さらにもう一つ!

学生の頃に入っていたサークル先輩から紹介されたチェコの新聞サイトの記事を斜め読みしてみたら、ものすごい内容が書かれていて思わずのけぞってしまった。

「未知の言語で書かれた「ヴォイニッチ手稿」の筆者は、ゲオルク・フォン・リヒ テンシュタインIII世である」

ヴォイニッチ手稿」と言えば、真夜中に一人で見るのは正直怖くて仕方がないという感想がどうしても出て来てしまう。もういい年だというのに、トイレに行くのも怖くなってしまうほどだ。お恥ずかしい話ながら、こういう時にこそ頼もしいお兄さんお姐さんに添い寝をして欲しいと思ってしまうほどだ。それほどの「ビビリ」なのだが、わたしがこうした子どもじみた感想を抱いてしまうのは、延々と文字のような文様と薄気味悪い絵が大量に描かれていて、何らかの意味を感じさせはするものの、具体的には何が書かれているかが皆目分からないからこそであろう。そうした恐怖心もととなっているのはやはり、手稿に延々と記されている謎めいた模様は文字なのか、あるいは文様に過ぎないのか、そしてかりにそれが文字であるとすれば、当の文字を用いて何を書いていたのか、そして一連の文章を書いた筆者が誰なのか——という、ごく基本的な問題に他ならない。人は、たったこれだけのことで訳が分かりそうでまったく分からないと思うものだし、そうした訳が分かりそうで分からないと感じてしまうものには恐怖心を抱いてしまうものなのだ。

あの文字列、あるいは文様は果たして意味を成す言葉なのか、あるいは単なる出鱈目な文字列やイラストレーションの羅列に過ぎないのかという議論が、これまで行われてきた。意味を成す言葉であると提唱する研究者たちは、ある種の人工言語であるという説や、フラマン語に基づくクレオール言語であるという説や、セム語族に属する言語であるという説などをこれまで提唱してきた。最近だと、ロシアの数学者たちが、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そしていくらかのラテン語を混合したものだったのではないかというを提唱した。

一方、この文書の筆者が誰なのかという問題についても、さまざまな議論が行われてきた。ロジャー・ベーコン(1214-1294)やエドワード・ケリー(1555-1597)ではないかという説がしばしば提唱されてきたものの、決定的な答にはいまだ到達していない。

現時点では筆者はいまだに不明では…