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「私の名は。」あるいは「おれの名をいってみろ!!」

来月あたりに某商業誌に掲載していただけることになった翻訳のゲラを見直していたら、編集者の方がわたしの名前にきちんと振り仮名を打って下さっていた。小学生の頃から今に至るまで音読みで読み間違えられて不快な思いをしてきたので、編集者の方のちょっとした心遣いに嬉しくなった。院生の時に学会発表をした時には、最近定年退職されたある有名な研究者で、わたしと一字違いの方が発表すると思って来たのにと言われて頭から湯気が噴き出してしまいそうになったことが少なからずあった。そうした発語を行った主はもちろん冗談半分で言って来たのだろうが、中にはこちらのことをあたかも氏の「パチモン」であるかのような物言いをしてくる腐った脳味噌の持ち主もごくごく少数ながらいたりして、本当にむかついた。そんなわけで、そうした無神経な発言をしてきた輩には、あちらの方は温かいところの心なごむ音楽をご専門とされていますが、こちらは寒いところの暗くて重い音楽を専門としております。至らぬところだらけとは思いますが、どうかこちらのことも今後ともよろしくお願い致します−−という感じで、しごく慇懃に切り返していた。名前を読み間違えられたり、書き間違えられたり、あるいは似たような名前の持ち主と比べられたりするのは、とことん不愉快なことだ。

このようなことがあったおかげで、年とともに他人様の名前の読み方や表記法にはかなり神経質になっていった。ドイツ語に由来するチェコ人の苗字を仮名で表記する際には、今の話題とは別の問題ながら、いつも神経がすり減りそうになる。生きている人の場合だとどのように読むのですかと訊ねれば済むが、死んだ人の場合だと文献を引っくり返した末に名前の読み方に関する証言が見付からなかった場合には、チェコ人の間で慣例的になっている読み方に従ってカタカナ書きをする破目になってしまう。名前とその読み方はその人のアイデンティティにもかかわるのだから、わしの名前を音読みで読むなバカという話と同じ根っこの問題ではある。

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西澤健一 オペラ『卍』世界初演(2017年11月17日)

西澤健一氏の作品を初めて耳にしたのは、チェコ留学から帰って来て大学院に復学した2003年頃のことだったと思う(正直に述べると、正確にはいつだったのか今では思い出せなくなってしまっている)。氏が開設していたウェブサイトにアップロードされていたピアノ・ソナタの自作自演音源をたまたま見付けたことが、氏の音楽を知るきっかけだったかと思う。今となっては懐しい Real Audio の低ビットレート音源で音質は悪かったものの、楽曲の骨格がとてもしっかりしている上に、実に熱い(と同時に実に暑苦しい)音楽にすっかり魅了されて、ファンになった。日本の芸術音楽の作曲家には失望することが多かったというのに、今でもこんなとてつもない才能の持ち主がいるものだ——とひたすら驚嘆し、感動したことを覚えている。また、折々に書かれた音楽やその他のことどもについての文章も内容が滅法面白い上に言葉も非常に巧みで、時間を忘れて貪り読んでいた。そんなこんなで、作品の音源とともに、ブログに載せられた文章もいつしか RSS リーダーを使って小まめにチェックするようになっていた。

西澤氏が自己紹介をする際には、「クラシックの作曲家」という言葉をしばしば用いている。現役の「クラシックの作曲家」と言えば、とかく難解で旋律や明確なリズムが存在しない訳の分からない、「音楽」と呼ぶのも憚られる代物ばかりを書いている人ではないか——という先入観を持たれる方も少なからずいらっしゃるかと思う。だが、西澤氏が現在書いている音楽は、そうしたものではまったくない。むしろ、明確な調やリズムを具えた実に美しく端正な旋律が横溢する音楽を書いている作曲家の一人である。一般にはあまり知られていないことだが、今日の芸術音楽の作曲家の中には、調性音楽をもっぱら書く人が増えつつある。こうしたことに鑑みると、現在の氏がもっぱら調性音楽を書いていることは、今となっては特段珍しいことでも何でもない。とは言え、それまでに聴いたことがあった、現役で活躍している芸術音楽の作曲家の手になる「聴きやすい」調性音楽と西澤氏が発表されている調性音楽との間には、きちんと言語化しにくいものの、どこか違ったものがあるのではないか——とずっと感じている。いわゆる「現代音楽」をかたくなに拒絶し、ありもしなかった「古き良き時代」を懐しむポーズを取っていたり、中世から今日に至るまで…

TEAC CD-P800NTのリレー音問題が見事解決!

TEACのネットワークプレーヤ CD-P800NT のファームウェアをアップデートした。ついさっきまでは、同じディレクトリに格納した音源ファイルを連続で演奏させる際には、あるファイルの再生が済んで次のファイルを再生する直前に「カチッ」というリレー音が鳴る上にポーズも入るので、実に欝陶しかった。何も期待せずにファームウェアをアップデートしてみたところ、あの音がものの見事に消えた上に、シームレスな再生も可能となった。実に喜ばしい。

仄聞したところによると、ユーザーのクレームに対してこの音は仕様ですと TEAC は言っていたとのことだ。2015年の時点で書かれたアマゾンのカスタマーレビューにも件のノイズは健在という旨が記されていたので、おそらくは2016年に出された最新のファームウェアで問題の根本的な解決が図られたのだろう(ファームウェアに関する説明には、なぜかこの問題への言及が一切なかった)。ネット上でも件の問題は動画付きで激しく批判されていたのだから、おそらくは電話などでの厳しいクレームもそれなりにたくさんあったものと思われる。

本当はユーザーに対して不手際についてきちんと謝った上でリリースすべきではなかったかと思うので、かなりモヤモヤとしてはいる。とは言え、あのプレーヤを使う上での最大のネックが解決されたことは、本当に良かった。粗大ゴミにせずに済んだどころか、この問題がなくなってNASに溜め込んだ音楽を普通に気軽に流して楽しめるようになった上に、このプレーヤを他の人にもようやく素直に勧められるようになったのも、実に喜ばしいことだ。

「ヴォイニッチ手稿」に関する新説が、さらにもう一つ!

学生の頃に入っていたサークル先輩から紹介されたチェコの新聞サイトの記事を斜め読みしてみたら、ものすごい内容が書かれていて思わずのけぞってしまった。

「未知の言語で書かれた「ヴォイニッチ手稿」の筆者は、ゲオルク・フォン・リヒ テンシュタインIII世である」

ヴォイニッチ手稿」と言えば、真夜中に一人で見るのは正直怖くて仕方がないという感想がどうしても出て来てしまう。もういい年だというのに、トイレに行くのも怖くなってしまうほどだ。お恥ずかしい話ながら、こういう時にこそ頼もしいお兄さんお姐さんに添い寝をして欲しいと思ってしまうほどだ。それほどの「ビビリ」なのだが、わたしがこうした子どもじみた感想を抱いてしまうのは、延々と文字のような文様と薄気味悪い絵が大量に描かれていて、何らかの意味を感じさせはするものの、具体的には何が書かれているかが皆目分からないからこそであろう。そうした恐怖心もととなっているのはやはり、手稿に延々と記されている謎めいた模様は文字なのか、あるいは文様に過ぎないのか、そしてかりにそれが文字であるとすれば、当の文字を用いて何を書いていたのか、そして一連の文章を書いた筆者が誰なのか——という、ごく基本的な問題に他ならない。人は、たったこれだけのことで訳が分かりそうでまったく分からないと思うものだし、そうした訳が分かりそうで分からないと感じてしまうものには恐怖心を抱いてしまうものなのだ。

あの文字列、あるいは文様は果たして意味を成す言葉なのか、あるいは単なる出鱈目な文字列やイラストレーションの羅列に過ぎないのかという議論が、これまで行われてきた。意味を成す言葉であると提唱する研究者たちは、ある種の人工言語であるという説や、フラマン語に基づくクレオール言語であるという説や、セム語族に属する言語であるという説などをこれまで提唱してきた。最近だと、ロシアの数学者たちが、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そしていくらかのラテン語を混合したものだったのではないかというを提唱した。

一方、この文書の筆者が誰なのかという問題についても、さまざまな議論が行われてきた。ロジャー・ベーコン(1214-1294)やエドワード・ケリー(1555-1597)ではないかという説がしばしば提唱されてきたものの、決定的な答にはいまだ到達していない。

現時点では筆者はいまだに不明では…