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青池保子『イブの息子たち』

イブの息子たち 全3巻 完結セット(白泉社文庫)

忙しいというのに、ついつい『イブの息子たち』の全巻を読破してしまった。あんなバカバカしい話の連続を大真面目に描き続けられるだけでも、青池氏はものすごい才能と筆力の持ち主だと思わずにはおれないし、70年代後半の少女漫画にはタブーがないに等しかったのだなとも思った。

具体的に書くとせっかくこれから読まれる方にとってはネタバレになってしまうのであえて学者風の物言いによって抽象化して書いておくだけにとどめておくが、この漫画ではジェンダーとセクシュアリティに関していろいろと問題のある表現が山ほど出てくる上に、その手の表現が物語の結構においてきわめて重要なキーとなっていることは、今日の観点から観るとかなり問題だとは思うし、今だと絶対にこのような作品を発表することは無理であろう。もちろん、そうしたことがらについてしっかりと留意しておくことは必要ではある(つまり、今日の観点から過去の作品を改竄したり断罪したりすべきではない)が、「ポリティカル・コレクトネス」など欝陶しいと言ってあの一連の微妙な問題の存在を否認してしまうこともまた、もっての他である(昨今の本朝においては、こういう馬鹿が幅を利かせつつあるのだが)。ともあれ、実際に読み始めてみると、ぐいぐいと読まされてしまう上に笑わされてしまうところが、実に恐ろしい。

そんなわけで、情報量過多であるだけではなく、とにもかくにも大真面目に不真面目なことをやり倒しているコメディが大好きな方には一読を強くおすすめする次第である。ただし、あまりにもバカバカしい話が延々と続くので、その辺は覚悟されたし。日本の往年のギャグマンガや、19世紀のロシア文学の古典や20世紀の不条理文学、それから1970年代の少女マンガのバタ臭い絵柄にある程度慣れている人だったら、まあ大丈夫だとは思うが。あ、あと、1970年代のプログレッシヴ・ロックが大好きな人にもお勧めできる、かもしれない……。


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西澤健一 オペラ『卍』世界初演(2017年11月17日)

西澤健一氏の作品を初めて耳にしたのは、チェコ留学から帰って来て大学院に復学した2003年頃のことだったと思う(正直に述べると、正確にはいつだったのか今では思い出せなくなってしまっている)。氏が開設していたウェブサイトにアップロードされていたピアノ・ソナタの自作自演音源をたまたま見付けたことが、氏の音楽を知るきっかけだったかと思う。今となっては懐しい Real Audio の低ビットレート音源で音質は悪かったものの、楽曲の骨格がとてもしっかりしている上に、実に熱い(と同時に実に暑苦しい)音楽にすっかり魅了されて、ファンになった。日本の芸術音楽の作曲家には失望することが多かったというのに、今でもこんなとてつもない才能の持ち主がいるものだ——とひたすら驚嘆し、感動したことを覚えている。また、折々に書かれた音楽やその他のことどもについての文章も内容が滅法面白い上に言葉も非常に巧みで、時間を忘れて貪り読んでいた。そんなこんなで、作品の音源とともに、ブログに載せられた文章もいつしか RSS リーダーを使って小まめにチェックするようになっていた。

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TEAC CD-P800NTのリレー音問題が見事解決!

TEACのネットワークプレーヤ CD-P800NT のファームウェアをアップデートした。ついさっきまでは、同じディレクトリに格納した音源ファイルを連続で演奏させる際には、あるファイルの再生が済んで次のファイルを再生する直前に「カチッ」というリレー音が鳴る上にポーズも入るので、実に欝陶しかった。何も期待せずにファームウェアをアップデートしてみたところ、あの音がものの見事に消えた上に、シームレスな再生も可能となった。実に喜ばしい。

仄聞したところによると、ユーザーのクレームに対してこの音は仕様ですと TEAC は言っていたとのことだ。2015年の時点で書かれたアマゾンのカスタマーレビューにも件のノイズは健在という旨が記されていたので、おそらくは2016年に出された最新のファームウェアで問題の根本的な解決が図られたのだろう(ファームウェアに関する説明には、なぜかこの問題への言及が一切なかった)。ネット上でも件の問題は動画付きで激しく批判されていたのだから、おそらくは電話などでの厳しいクレームもそれなりにたくさんあったものと思われる。

本当はユーザーに対して不手際についてきちんと謝った上でリリースすべきではなかったかと思うので、かなりモヤモヤとしてはいる。とは言え、あのプレーヤを使う上での最大のネックが解決されたことは、本当に良かった。粗大ゴミにせずに済んだどころか、この問題がなくなってNASに溜め込んだ音楽を普通に気軽に流して楽しめるようになった上に、このプレーヤを他の人にもようやく素直に勧められるようになったのも、実に喜ばしいことだ。

「ヴォイニッチ手稿」に関する新説が、さらにもう一つ!

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「未知の言語で書かれた「ヴォイニッチ手稿」の筆者は、ゲオルク・フォン・リヒ テンシュタインIII世である」

ヴォイニッチ手稿」と言えば、真夜中に一人で見るのは正直怖くて仕方がないという感想がどうしても出て来てしまう。もういい年だというのに、トイレに行くのも怖くなってしまうほどだ。お恥ずかしい話ながら、こういう時にこそ頼もしいお兄さんお姐さんに添い寝をして欲しいと思ってしまうほどだ。それほどの「ビビリ」なのだが、わたしがこうした子どもじみた感想を抱いてしまうのは、延々と文字のような文様と薄気味悪い絵が大量に描かれていて、何らかの意味を感じさせはするものの、具体的には何が書かれているかが皆目分からないからこそであろう。そうした恐怖心もととなっているのはやはり、手稿に延々と記されている謎めいた模様は文字なのか、あるいは文様に過ぎないのか、そしてかりにそれが文字であるとすれば、当の文字を用いて何を書いていたのか、そして一連の文章を書いた筆者が誰なのか——という、ごく基本的な問題に他ならない。人は、たったこれだけのことで訳が分かりそうでまったく分からないと思うものだし、そうした訳が分かりそうで分からないと感じてしまうものには恐怖心を抱いてしまうものなのだ。

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