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投稿

インスタ映えするゲソヲソ?

今も昔もゲソヲソこと現代音楽を心の底から愛しているがゆえにゲソテソことゲソの天ぷらは定期的に食さねばならぬという信念の下でスーパーで半額になっていたものを一切れ購い、美味しく食した。インスタ映えしようがしまいが一枚写してここにアップロードすべきだったのだろうが、あいにく空腹には勝てなかったのでインスタ映えするかもしれないゲソテソ写真は今後の課題ということにさせて欲しい。わたしはいまだにガラケーユーザーなのであのキラキラとした楽しそうな世界とはまったくの無縁ではないかと思っていたのだが(小型PCあるいはタブレットとして使うには画面が小さ過ぎるし、電池切れになりやすいのがかなわん。とは言え、キャッシュレスでの支払い方法が普及しつつあることに鑑みると、不本意ながらそろそろスマホを使わざるを得ないとも考えている)、PCからでもアップロードできるらしいということを知った。とは言え、写真は撮るのも撮られるのも苦手なので、過剰な期待を寄せられるとプレッシャーになって何もアップロードできなくなる。という訳で、草陰あるいは草間の陰から適当に生暖かく見守ってから適当な折にでもさっさと見捨てていただけると、はなはだ幸いである。
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大顔小顔、大頭小頭

とある美容サイトを見ていて、わたしは頭はゴツいものの、妹に言わせると小顔に見えてしまうらしいということをふと思い出した。実際、作曲家で言えばヤナーチェクやリゲティ、指揮者で言えばホルスト・シュタイン並みの大頭の持ち主であるがゆえに、ガキの頃には頭からしょっちゅうこけていた。そのおかげで、プロコフィエフよろしくいまだに額にコブが残っている。こけまくってさえいなかったら、今頃はもっと頭の回転が速かった上に思考のキレも素晴らしかったことだろうし、物覚えももっと良くて、古典語であろうとアラビア語であろうと何でもかかって来いやというノリの(もしかすればバフチンやソレルチンスキー並みの)正真正銘のポリグロットになれていたかもしれない。とは言え、己れの頭の悪さについては今さらいかんともし難いのだから、せいぜい泣くことぐらいしかできないだろうし、今のわたし自身をただひたすら受け入れるしかない。

今しがたぶちかました大人気ないタラレバの数々はともかく、本朝の女性の間では「小顔」という言葉が呪縛になってしまっていることが多いさまを件のサイトを見ていて改めて認識してしまったのだが、舞台に立ったり人前で話をしたりする仕事に携わるのだったら、老若男女問わず「小顔」の持ち主よりもむしろ「大顔」や「大頭」の持ち主の方がいろいろな意味で圧倒的に有利になると思う。顔や頭の大小に限らず、コンプレックスは逆にセールスポイントにしていった方が、生きてゆく際には良いに決まっている。わたしも癖毛と大頭の持ち主であることがずっとコンプレックスのもとで、完全にふっ切れるようになったのは30を過ぎてからのことだった。だからこそ、若い方々にはこうしたことを機会があるごとに伝え続けてゆきたいと思う。

浪曲から学べること

ひょんな理由から初夏から読み始めたものの、なかなか読みが進まずに難渋しっぱなしのヴァンチュラのRozmarné léto(『気まぐれの夏』)なのだが、オペラ『卍』を観てから感想文をいろいろと書いたり消したりしているうちに、本文と格闘する前に浪曲を一発キメた時にはわりといい感じで読めるようになっていたことを思い出した(と言うか、いい感じで辞書を引いたり、厄介な構文でもって書かれていても比較的すらすらと解析ができて、前後の文脈が自然と分かるようになっていた)。これは嘘ではないので、日本語を解するチェコ関係者のみなさまには一度試してみられることを強くすすめる。おそらくは、浪曲は、ハシェクやフラバルなどの語り芸の性格が強く見られる文章を読む時にも効力を発揮してくれるものと思う。要するに、文章で描かれている内容を正確に把握することもとても大事だが、どんなジャンルの文章であっても煮詰めてゆけば「語り」であるということを考えると、書かれた文章が具えている音が時間軸に沿って流れてゆくさまを想像することもまた大事であって、そのことを体感するには浪曲がとても良い教材になる——ということである。時間切れで話が尻切れトンボになってしまったり、伏線が回収できなくなってしまっても、名人の手にかかると語りの芸そのものに満足できてしまうということの意味を考える必要があると思う、いやマジで。

ただし、一言忠告しておくと、この路線に則して文章を読む習慣が付いてくると、駄洒落や地口をやたらと口にしたり、それから脚韻や頭韻やフレーズごとの音節数の調整に凝るようになったりするので、本朝においてうまく生き伸びてゆきたいという人は細心の注意を払いつつ日常生活を送られるべきである。言葉遊びを卑しめることがあたかもカッコいいことと信じ込んでいるおりこうさんどもが幅を利かせているこの国のことだから、下手をすると「馬鹿」あるいは「オヤジギャグしか言えない寒い人」、さらにひどい場合には「穀潰し」という烙印を押されてしまう可能性が極めて高くなるので、くれぐれも注意されたい。わたしに関しては、あんな連中に馬鹿呼ばわりされようが、寒い駄洒落を言うなと言われようがまったく痛くも痒くもないどころか、まったくの平気の平佐のダメ人間なので、別に構わないのだが。

西澤健一 オペラ『卍』世界初演(2017年11月17日)

西澤健一氏の作品を初めて耳にしたのは、チェコ留学から帰って来て大学院に復学した2003年頃のことだったと思う(正直に述べると、正確にはいつだったのか今では思い出せなくなってしまっている)。氏が開設していたウェブサイトにアップロードされていたピアノ・ソナタの自作自演音源をたまたま見付けたことが、氏の音楽を知るきっかけだったかと思う。今となっては懐しい Real Audio の低ビットレート音源で音質は悪かったものの、楽曲の骨格がとてもしっかりしている上に、実に熱い(と同時に実に暑苦しい)音楽にすっかり魅了されて、ファンになった。日本の芸術音楽の作曲家には失望することが多かったというのに、今でもこんなとてつもない才能の持ち主がいるものだ——とひたすら驚嘆し、感動したことを覚えている。また、折々に書かれた音楽やその他のことどもについての文章も内容が滅法面白い上に言葉も非常に巧みで、時間を忘れて貪り読んでいた。そんなこんなで、作品の音源とともに、ブログに載せられた文章もいつしか RSS リーダーを使って小まめにチェックするようになっていた。

西澤氏が自己紹介をする際には、「クラシックの作曲家」という言葉をしばしば用いている。現役の「クラシックの作曲家」と言えば、とかく難解で旋律や明確なリズムが存在しない訳の分からない、「音楽」と呼ぶのも憚られる代物ばかりを書いている人ではないか——という先入観を持たれる方も少なからずいらっしゃるかと思う。だが、西澤氏が現在書いている音楽は、そうしたものではまったくない。むしろ、明確な調やリズムを具えた実に美しく端正な旋律が横溢する音楽を書いている作曲家の一人である。一般にはあまり知られていないことだが、今日の芸術音楽の作曲家の中には、調性音楽をもっぱら書く人が増えつつある。こうしたことに鑑みると、現在の氏がもっぱら調性音楽を書いていることは、今となっては特段珍しいことでも何でもない。とは言え、それまでに聴いたことがあった、現役で活躍している芸術音楽の作曲家の手になる「聴きやすい」調性音楽と西澤氏が発表されている調性音楽との間には、きちんと言語化しにくいものの、どこか違ったものがあるのではないか——とずっと感じている。いわゆる「現代音楽」をかたくなに拒絶し、ありもしなかった「古き良き時代」を懐しむポーズを取っていたり、中世から今日に至るまで…

【電脳大工道具】 TeX界の長足の進歩に驚くの巻

数年間 TeXLive を更新していないうちに TeX の多言語周りに関する事情が長足の進歩を遂げていたことを改めて知って、知らぬ間に浦島太郎になってしまっていたことを痛感させられた。というわけで、遅れを取り戻すために、わたし自身が日常的に必要とする多言語周りの機能に関連したテストファイルをいくつかこさえて目下ひたすら試行錯誤をしているところだ。

TeXのインストールが死ぬほど面倒臭くてかなわんわとことあることに悪態を付きつつも、かれこれ20年近く原稿書きの場においてしつこく(pLa)TeXを使い続けているのは、長期間にわたって考えを育ててゆくことになるであろう原稿ファイルをいじくる際にはやはりテキストファイルで書かないと危険だと考えているからに他ならない。単なる一私企業でしかない法人の都合でアプリケーションの仕様を勝手に変更されて、以前にそのアプリケーションを用いて作ったファイルをまともに開けられなくなるというのは、どう考えてもおかし過ぎるではないか。テキストファイルだと、然るべきフォントを用意してエンコーディングをきちんと設定してやればそんな馬鹿なことはまず起きない。よほど特殊な事情でもない限り、utf-8 のエンコーディングで間に合うのだから、昔に比べればだいぶん楽になった。もちろん、TeXの各種クラスファイルやスタイルファイルなどの仕様変更に伴って、以前と同じようには組版できなくなるということもままあるのだが、それはコントロールシーケンスを適当に書き換えればほぼ問題なく済んでしまう話だ。あと、もしかすれば、機密性の高い文書はどうするのだと言われてしまうかもしれないが、テキストファイルとして作成したのちに GnuPG を使って暗号化してしまえば良い。実に簡単な話である。

逆に、相手から Microsoft Word などの文書として作成してほしいと要望されている上に、分量も原稿用紙1枚程度の規模に収まりそうな時には、Word で最初から作成してしまうことが多い。あるいは、TeXについてまったく知らない相手にこの種の原稿を渡す時には、こちらが勝手に「忖度」をして Word の形式で(または、rtfとして)作成して送ってしまう。また、分量が大きい場合には、普段通り LaTeX のソースファイルとして一通り作成したのちに、Word にソースの内容を貼り付けて修正…

【書き仕事】東京交響楽団の新潟定演のための解説を書きました

ヤナーチェク:シンフォニエッタ

わたしは、上記プログラムによる24日に開催される新潟での公演のための解説を担当しました。川崎においても、また新潟においても、強烈至極なトランペット祭りが繰り広げられることと思います。演奏会の前半では、ドヴォジャークの交響曲第9番『新世界より』が演奏されます。このような野心的なプログラムに組み込まれているのですから、この交響曲の演奏も「通俗名曲」のイメージを間違いなく完膚無きまでにぶち壊してくれる名演になるかと思います(ドヴォジャークのこの曲には、ボヘミアに帰ってから書いた一連の交響詩やオペラでの「大暴れっぷり」を予告する実験的な要素がふんだんにあります。特に、今年の11月に日生劇場で上演されるオペラ『ルサルカ』には、この交響曲で用いられている手法が随所に現れてきます)。

こぼれ話を少ししておきますと、演目の「トリ」であるヤナーチェクの『シンフォニエッタ』と同様に金管のバンダが大暴れするケルシェック氏の新曲にはまだ音源がないために、スコアリーディングだけを頼りにして音像を頭の中で妄想リアライゼーションをさせつつ、ケルシェック氏ご本人にメールで質問したことがらに関する回答をも盛り込んだ解説を準備しました。正直、ものすごく大変な作業でしたが、とてもいい勉強になりました。

そんなことはともかく、スコアを読んでいただけでも、氏の曲は超絶技巧が炸裂したノリノリのエンタメ名曲に仕上がっていることが分かります。前半では1980年代あたりのゲソオソ業界でよく流行った無調と調性との間をたゆたう感じのやや晦渋な感じがする音が鳴り響くのですが(個人的な印象ですが、あの頃のペンデレツキの曲のサウンドを彷彿とさせます)、いわゆるゲソオソではないので、「通」のお客さんではなくとも素直に楽しめると思います。スコアリーディングとの「答え合わせ」と洒落込んでわたしも聴きに行きたいのですが、あいにく両方の公演の日に仕事が入ってしまっているので聴きに行くことができません。本当に無念です! ご都合の合う方は、是非とも聴いてみてください!

【雑記】文章を書くという行為の重みを踏みにじった者の罪

「嫌韓」「反日」の記事を書けば800円。政治系ブログ作成の求人が掲載中止に

子どもに言葉を教えたり、専門に近いところでは音楽に関する文章を書いたり、声楽家に原語指導などをすることによってお金をいただいている者から見ると、こいつらは文章を書くという行為の大変さと尊さ、ひいては言葉を用いることそれ自体についてまったく理解していないどころか、まったく理解したくないという、どうしようもなく下卑た連中だとしか思えない。これは、求人をした側だけが悪いということでは決してない。言うまでもなく、求人をした側の罪の大きさにははかり知れないものがある。だが、このような仕事を唯々諾々と請け負った側の罪もまた甚大なるものであり、決して免責されるものではない。両者に対して、わたしは激しい怒りを禁じ得ない。まとまった内容を持った文章を書くという行為とその価値を貶めたのみならず、このようなゴミクズを安価な値段で大量生産させた結果、日本語圏のネット、ひいては日本社会を劣化させることに貢献したからだ。この点においても、求人した連中と仕事を請け負った側の双方は万死に値する——と、わたしは思わずにはおれない。

個々人の政治的な立場を表明することはもちろん自由だし、大いになされるべきことであろう。この世で生きのびてゆこうと思えば、どんなかたちであれ政治と関わらずに済ませることができないという意味で、生きることとは政治的な行為なのだから。だがしかし、事実をきちんと精査した上で論評を加えるべしという、他人様に向けて文章を書く者にとってはごくごく当たり前のルールを軽視、いや蹂躙する者たちが吐き出した文字列などに、いったいどのような価値があると言うのだろうか。この国の言論を立て直そうとすれば、小手先のテクニックに頼ることなく、こうした基本的なところに立ち戻らなければならないのであろう。そうしようと思うと、結局のところは教育の問題に行き着いてしまうのだ。