2017年7月15日土曜日

Vydal monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád!

Franz Kafkas Literatursprache Deutsch im Kontext des Prager Multilingualismus

Jsem velice šťastný tím, že jsem si uvědomil toho, že vydal svou monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád Boris, jenž učil němčinu na pedagogické fakultě Masarykovy univerzity v Brně během mého studijního pobytu v 2001-3 a je ke mně od té doby stále nesmírně laskavý. Nikdy nezapomenu, jak mě uklidňoval, kdykoliv bylo mi smutno tím, že na ulicích mne uráželi jen proto, že jsem "žlutá opice" z Asie. Rád bych si proto koupil exemplář jeho knihy, ačkoliv jsem velmi špatný čtenář německých textů vůbec! Dejte mi vypít, abych ho oslavil!


2017年7月13日木曜日

『アステイオン』86号にミラン・クンデラの対談記事の拙訳を掲載していただけました

すでに二月近く経ってしまいましたが、宣伝です。(我ながら、宣伝下手です……。)



ミラン・クンデラとチェコ放送で文芸番組のディレクターを務めていらしたトマーシュ・セドラーチェクさん(経済学者であるトマーシュ・セドラーチェクさんとは、まったくの別人です)との対談記事「にわかに信じ難い運命」をわたしがチェコ語から日本語へ訳したものを、『アステイオン』86号に掲載していただきました。昨今の出版事情に鑑みると、単行本への収録ということは絶望的でしょうから、クンデラの小説や現代文学がお好きな方には、今回の『アステイオン』を購入されることを強く、強くおすすめ致します。政治学者の池内恵さんも書かれているように、今回の『アステイオン』は採算度外視の実に濃い号に仕上がっています。是非とも買ってください。これだけでも1000円を出すのに十分過ぎる価値があります。

件の対談記事は、ブルノにあるアトランティス社が2004年に刊行した『私のヤナーチェク』という本のトリを飾るものとして出版されたものです。実は、この本がチェコで刊行された直後に入手して対談記事の全訳を作成し、いろいろな出版社に持ち込んでもたものの、なかなか色良い返事がいただけずにそのままにしてしまっておりました。紆余曲折の末に『アステイオン』に掲載していただけて、本当に良かったです(紆余曲折の具体的な内容については、いろいろと差し障りのある話が多いので、公の場では今後とも一切触れないつもりです)。

『アステイオン』の惹句にも記したことではありますが、この対談の内容は大まかには『裏切られた遺言』での議論をチェコ共和国在住の一般の聴取者向けに分かりやすく要約したものだとも言えます。とは言え、それだけの意義にはとどまりません。『裏切られた遺言』においてかつて開陳していたマックス・ブロートに対する厳しい評価をよりポジティヴなものに改めています。クンデラがブロートの評価を転換していたことは、少なくとも日本語圏の読書界ではまだあまり知られていないことかと思います(この点についてだけでも、日本語に翻訳し、紹介する意義があったと考えております)。さらに言うと、クンデラは、ヤナーチェクについて語ることを通して、政治的、経済的、文化的な観点から「マイナー」あるいは「周縁」という扱いを「メインストリーム」に属している者たちから受け続けて来た地域や民族集団を出自とする芸術が背負わされてきた運命についての考察を行っています。きわめて普遍的なものがありますし、現代の日本で生きている人間にとっては彼の問題意識は実に痛切なものとして響くはずであるにもかかわらず、クンデラが提起している問題が「問題」として意識されることがきわめてまれである——というところが、この国の多数派を占めているであろう「名誉白人」の病の深さを体現しているように思えてなりません。

それはともかく、この対談の一読者としての個人的な感想に過ぎないのですが、昔から「反叙情」を唱え続けてきたはずなのに、セドラーチェク氏と言葉をやり取りしているうちに、クンデラの言葉からはこの上なく叙情的な香りが立ち上がっています。その辺もまた、『裏切られた遺言』での硬質な文章とは違うのかもしれません。

2017年7月2日日曜日

『気まぐれの夏』の読みで悶絶なう

目下、いろいろな仕事の合間を縫って、ヴラジスラフ・ヴァンチュラ大先生の『気まぐれの夏』の読解をちびりちびりと進めているところなのですが、この小説の語り口について一言だけ印象を申し上げておきますと、あの小説の大半は登場人物の会話をそのまま引用した直接話法で出来ていて、語り手は登場人物の会話のつなぎを行ったりしつつ、そこへ寸鉄人を刺すという感じの註釈を入れたりしています(註釈の入れ方が、やはり前近代の小説や日本で言えば『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話を読んでいるような感じがして、妙に面白かったりします)。しかも、語り手が登場人物の会話を引用する際には、引用符が用いられることがありません(現地で普及している版では、読みやすさを配慮してか、引用符が付けられています。ですが、学問的な校訂がなされた全集版では、引用符がすべて取り払われています)。そのためでしょうか、登場人物が話している部分と語り手が語っている部分とが融合された感じの字面になっています。

登場人物の言葉に注目してみると、人物ごとに言葉の性格が異なっているものの、どの人物も日常の会話ではあり得ないような豪華絢爛たる饒舌——1920年代に書かれたものとは到底思えないものすごく古めかしい語彙や形態論や統語法のコンボと卑俗極まりない表現、そしてどうやらギリシアやローマの古典や聖書や近代ヨーロッパのさまざまな文学作品などを踏まえた感じがする物言いとの楽しい(そして、それゆえに読解を進めてゆくのにものすごく難儀する)アマルガムとでも形容するしかない代物——を延々と繰り広げてゆきます。内容を要約すると本当にしょーもない話の連続なので、「真面目」な内容を持った話を好まれる方だと真っ先に腹を立てられることかと思います。ですが、そうした「しょーもない」内容だからこそ、登場人物があるモティーフに基いた観念連合を過剰なまでに派手派手しい言葉でこれでもかこれでもかと言わんばかりのノリで紡ぎ出してゆくさまのおかしみがいやが応にも伝わってきます。その様子は、テーマが下らなければ下らないほど筆や体がノリノリになってゆく作曲家や即興演奏の大家をどこか彷彿とさせます。

そんなわけで、原文を読んでいると(あるいは、解読してみると)、まるで高座に上がった落語家や浪曲師がさまざまな声色を駆使して登場人物の会話を再現しているかのような感じがしてきます。このような摩訶不思議な言葉で織り上げられた作品なのですから、黙読だけで済ませてしまうのは寂しいものです。やはり朗読されて然るべき内容のものですし、新作落語に積極的に取り組まれている噺家や、あるいは浪曲師の方にも取り上げていただけるような、生きの良いノリノリの訳文を作り上げることを目指してゆこうと思います。乞御期待。

追記: 落語や浪曲のようだと思ったのですが、ペダンチックでもあり卑俗でもある饒舌な語り芸のようだという点では、日本語で書かれた小説だとやはり漱石の『我輩は猫である』に少しばかり似ているのかもしれません。



さらに追記: わたしの日本語訳が待てない! という方には、英訳や仏訳がすでにチェコで出版されているので、そちらをお勧め致します。しかも、電子書籍版も出ています。買わない手などありません。ただし、英訳も原文に合わせてかなり難度が高い語彙やら構文やらが駆使されたものなので、それなりの覚悟を決めた上で手を出された方が賢明かと思います。


2017年6月30日金曜日

glibcライブラリがないと言われてSlackwareが起動しなくなった!

読んで字の如しという話なのだが、先日サブマシンのThinkPad X61にインストールしている Slackware64 current(早い話が、人柱御用達ヴァージョン)のソフトウェア一式をアップグレードさせて再起動させたところ、

GLIBC_2.25

云々と書かれたメッセージが大量に表示されて起動できなくなってしまった。要するに、glibc の共有ライブラリのバージョン 2.25 に依存している大量のアプリケーションやライブラリを起動させることができなくなって、OS 自体を起動させることができなくなってしまった、ということである。

このトラブルの原因は、明らかだ。昔からずっと愛用している Alien Bob 氏による multilib パッケージや独自ビルドが slackpkg コマンドによって自動的に slackware 公式のビルドに置き換えられないようにしようと、/etc/slackpkg/blacklist ファイルにおいて

[0-9]+alien

という設定を書き込んでいるためだった。

原因がすぐに分かったとは言え、起動させられなかったらてんでお話にもならない。だが、ここで再インストールなどしてはいけない! 早まってはならぬ。Ubuntu や Debian ならいざ知らず、相手は Slackware だ。インストール作業それ自体はほんの2時間ぐらいで終わるし、下手をすると Windows のインストールよりもはるかに簡単に済むことであろうが、自分好みの環境を復旧させるのに軽く1週間はかかってしまう。いろいろと書き仕事の案件を抱えている身にとっては、時間と労力の無駄以外の何者でもない。こういう時にこそ、インストール時に使われたであろう OS のインストールディスクを使おう。Windows のインストールディスクと同様に、Slackware のインストールディスクもレスキュー用途でフルに使うことができるのだ。だからこそ、こうした状況に陥ってしまっても、まずはコーヒーや茶などを飲んで気持ちを落ち付けてから、インストールディスクと空き容量が十分にある適当な USB メモリを探し出そう。

復旧させる方法についてだが、大まかには Re-installing lilo from a Slackware boot CD に記されている手順をほぼそのまま踏めば良い。ただし、注意すべき点もあるので、いちおう手順を以下に少し詳し目に記しておくことにしよう。

(1)インストールディスクで Slackware64 を起動させる。

この手順については、詳述しない。Slackware の本家サイトや Alien Bob 氏のサイトにあるドキュメントを熟読されたい。

(2)起動しなくなった Linux のルートパーティションを適当なディレクトリを作成し、そこにマウントさせる。

上記のブログの方の手順に従って

mkdir /foo

というディレクトリを作る(もちろん、foo の代わりに hoge でも fuga でも何でも良い)。

わたしが使っている X61 では Linux の起動パーティションは /dev/sda3 である(sda1とsda2 は Windows 用に用いている)。

というわけで、次のコマンドをそれぞれ投入してゆく。

mount /dev/sda3 /foo
mount --bind /proc /foo/proc
mount --bind /sys /foo/sys
mount --bind /dev /foo/dev

mount コマンドの --bind オプションを用いて /proc ディレクトリ、/sys ディレクトリ、そして /dev ディレクトリを上記の場所にマウントすることの意味については、こちらを参照されたい。

(3)USB メモリをマウントさせる。

(2)で投入したコマンドの後に、Slackware の公式サイトから入手しておいた glibc-solib 2.25 のパッケージをコピーしておいた USB メモリを適当なディレクトリへマウントさせる。この作業を行ってから chroot コマンドを投入すること。chroot コマンドを投入してから mount コマンドを投入してしまうと、ルートパーティションにある mount コマンドを使うことになる。そうすると、ルートパーティションには入っていない、問題の glibc-solibを探そうとするので、USB メモリをマウントできなくなってしまうのだ。

(chroot コマンドについては、図版付きで分かりやすく説明して下さったこのサイトを参照のこと。)

わたしが用いている USB メモリは FAT32 でフォーマットされていて、ドライブが1つしかない。また、マウント先は /mnt/tmp にすることにして、以下のコマンドを投入した。ただし、いつものことながら、各自の環境に合わせて適宜読み替えること。

mount -t vfat /dev/sdc1 /foo/mnt/tmp

(4)chroot コマンドを用いて、(2)でマウントした場所をルートと見なさせる。

chroot /foo

(5)USB メモリにコピーしておいた glibc-solibs の 2.25 をインストールする。

例えば、USBメモリの glibc ディレクトリの中に上記のパッケージをコピーしておいた場合には、

upgradepkg --install-new /mnt/tmp/glibc/glibc-~1

というコマンドを補完入力しつつ投入することとなろう。(余談ながら、今となっては MS-DOS 用の短いファイルネームを使うことなど滅多にないものだから、実に懐しかった。)

(6)chroot を解除し、再起動する。

次のコマンドを順に投入されたし。

exit
reboot

(7)/etc/slackpkg/blacklist ファイルを編集し、slackpkg コマンドを再投入する。

無事起動することを確認してからログインし、root 権限で /etc/slackpkg/blacklist ファイルのうち、以下の個所を編集する。

[0-9]+alien

文頭に # を入れてコメントアウトし、slackpkg コマンドによってこれまでアップグレードされていなかったパッケージ一式をダウンロードさせてインストールする。

(先ほどの MS-DOS 用の短いファイル名が記されたファイルが /var/log/packages にできていて気持ち悪いという方は、/var/log/packages ディレクトリへ移動して

removepkg glibc-~1

というコマンドを投入してから、USB メモリにコピーしておいたパッケージを再度インストールし直す。

installpkg glibc-solibs-2.25-x86_64-2.txz

これを行ってから、下のコマンドを投入すれば良かろう。ただ、この作業を飛ばしても、下のコマンドを投入することによって再度同じパッケージがダウンロードされて上書きインストールされるので、わたしは件のファイルはそのままにしておいた。)

slackpkg install-new
slackpkg update
slackpkg upgrade-all

これで一通りの作業が完了する。

ご存じの通り、Ubuntu や Debian などとは違って、Slackware にはパッケージ間の依存関係を調べるシステムがない。それゆえ、Slackware、しかも current 版を日常的に使っていると、この種のトラブルは日常茶飯事だ。だが、基本的なことがらさえ分かっていたら、たいていのトラブルは解決できてしまう。というわけで、再インストールというカードは安易に切ることなく、むしろトラブルを楽しめるぐらいでありたいものだ。実際、今回のトラブルが発覚した際には、ブログに書くネタが一つできたと嬉しがってしまったぐらいだ。

(追記: この問題の解決法については、LinuxQuestions.org にもあったので、リンク先を紹介しておく→[SOLVED] Updated 14.2 current GLIBC_2.25 not found こちらの方が上記のものよりもずっと綺麗な解法だと思うが、こういうやり方は思い付かなかったのだ……。)

2017年6月29日木曜日

クラウドファンディングのご案内: 「知られざるシマノフスキの魅力を日本で」

知られざるシマノフスキの魅力を日本で。デュオ・リサイタル開催

なんとまあ! 東京藝大でさえもクラウドファンディングをしなければ資金繰りができないとは、いったいどういうことなのだ……。こう思わずにはおれなかったのですが、お財布に余裕のある方はどうかこのプロジェクトをサポートしてください(すでに目標金額に到達しているとのことですが、この種のイヴェントを健全な形で開催するには、やはり1円でも多くのお金が必要となります)。お財布の紐が固くてどうしようもないという方は、どうか代わりに情報を拡散してください。

シマノフスキの音楽は、豪華絢爛で洗練の極みにあると同時に、つねに表現が過剰で鈍重で土臭くもあるところが魅力的だといつも感じております。とりわけ、ポーランド南部の民俗音楽に着想を得て書かれた晩年の作品群には、シマノフスキ以外の人間には到底作り上げられなかったであろう独特な音世界があります。『スターバト・マーテル』やピアノのための一連のマズルカなどが、その端的な例として挙げられます。未聴の方は、これを機会にどうか YouTube などでお聴きください。両大戦間の中央ヨーロッパやロシアで作られた芸術音楽にご関心がある方でしたら、きっと楽しめることと思います。

ドイツよりも東の地域で作られた芸術音楽を積極的に広めることは、独墺・仏・伊以外の地域を出自とする音楽作品をとかく「イロモノ」扱いしがちである、この国の西洋芸術音楽愛好家ならびに専門家の視点を少しでも広く、そして少しでも柔軟なものにすることにもつながってゆくものと信じております。ですから、わたしもきわめて微力ではありますが、このプロジェクトに貢献しようと思います。

2017年6月26日月曜日

Xfce4 で ThinkPad T400 のタッチパッド手前にある2つのボタンを無効化させたい!

最近までは ThinkPad T400 を自宅で使う際にはもっぱら Happy Hacking Keyboard Professional2 をつなげて使っていたのだが、文学作品、なかんずく屋号にもしている『気まぐれの夏』の翻訳などという無茶なことを本気でやり始めると、あっという間にデスクの上には辞書やら本やらが大量に散乱してしまう破目になる。そうなると、外付けキーボードをどこかにどけてから ThinkPad 本体のキーボードを使って、少しでも本や文房具を置けるスペースを確保してやらないと、どうしようもなくなってしまうのだ。そうなると、ThinkPad のキーボードを直接叩くことになる。IBM時代に製造された大昔の機種であれば、何の問題もなかったのかもしれない。ところが、いつの頃からかいろいろと「要らない」ギミックが付けられるようになったが、なかんずくタッチパッドとタッチパッドの手前側に付いている二つのボタン、それから(IBM時代の機種からもあったとは言え)ブラウザキーこそが、その最たるものではなかろうか。意図せず触れてしまって予期せぬ動作をされた末に大あわてしたという経験をお持ちの方は、決して少なくなかろう。

Windows を動かしている場合だと、Lenovo のサイトから然るべきアプリケーションをダウンロードしてインストールしてしまえば、事はすべて解決できてしまう。また、Linux を使っている場合であっても、X Window System(以下では、Xと略記)上でタッチパッドとブラウザキーを無効化させることはきわめて簡単で、実際ウェブ上には設定方法を記したサイトがたくさんある。だが、その一方で、X を動かしている時にタッチパッドの手前にある、あのむくつけき二つのボタンを無効化する方法について説明したサイトについてはなかなか見付けられなかったので、ずっと不本意な挙動を甘受せざるを得ない状態だった。だが、幸いなことに、分かりやすい解説を最近になってようやく発見できた。次のサイトが、それである。

タッチパッドの下手前側ボタンの無効化 on linux

上記のサイトで解説されていることがらに一言付け加えておくとすれば、ズボラをしてこの方が書かれているコマンドラインをそのままコピペしないことという一言に尽きる。機種ごとに装着されているハードウェアが異なっているのだから、機種によってコマンドを投入して返される値も異なったものになる。至極当然と言えばそれまでなのだが、わたしのようなものぐさはついついこのことを忘れてズボラなことをしてはまってしまうのだ……。

それはともかく、手順は次の通り。

(1)タッチパッドに関するハードウェア情報を取得

xinput list

コマンドを投入してから、

SynPS/2 Synaptics TouchPad

の行に出て来る id をメモすること(この値は、ThinkPad の機種によって異なる)。

手元にある T400 の場合だと、12という値が返って来た(もちろん、型番によって異なる可能性もあるので、きちんとお手元のマシンでコマンドラインを投入されたし)。

xinput get-button-map 12


とターミナルエミュレータにコマンドとオプションを投入する。

すると、

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

と返してくる。

上記のサイトの方も記されているように、左クリックは1番、右クリックは3番に割り当てられており、上記の1と3をともに

0

に直すと無効化することが可能となる。

(2)設定ファイルの準備

わたしの環境ではコンソール画面から startx コマンドを投入して Xfce4 を起動させている。

もちろん ~/.xinitrc に直接 xinput コマンドに関する文字列を書き込んでも構わないのだが、気分次第で KDE などの別のデスクトップ環境に浮気したくなる時だってある。

そうした場合に備えて、わたしは ~/.xprofile に書き込むことにして、Xfce4 に作成した~/.xinitrc にこのファイルを読み込ませるよう設定することにした。

~/.xprofile に

xinput set-button-map 12 0 2 0 4 5 6 7 8 9 10 11 12

と記す。お手元の環境にこのファイルがない場合には、作成すればよい。

次に、~/.xinitrc に

source ~/.xprofile

と書き込む。ただし、ここにもあるように、exec コマンドの前に書き込む必要がある。

X を再起動させれば、件の二つのボタンは問題なく作動しなくなっているはずだ。(ただし、サスペンドから復帰させた際にはなぜかこの設定が無効化されてしまって、元の木阿弥になってしまう。そうした場合には、素直に X を再起動させよう。)

2017年6月20日火曜日

【イヴェントのお知らせ】朗読&トーク・イベント 「ワシーリー・グロスマンの夕べ」

朗読&トーク・イベント 「ワシーリー・グロスマンの夕べ」

(上記サイトからの引用です。)

<予告>

朗読&トーク・イベント
「ワシーリー・グロスマンの夕べ」

ワシーリー・グロスマンの朗読&トーク・イベント、日程が確定しました!

この夏、関西のちょっと変わった三つの場所にて、東京と大阪で活躍中の俳優陣を交えて、別々のテクストの朗読と解説による「ワシーリー・グロスマンの夕べ」(仮)を開催いたします。

➀「ユダヤの運命と共にあったロシア作家」(仮)
7月29日(土)夜@カフェ・ルーデンス(西宮・夙川)

②「二つの全体主義に抗して」(仮)
8月19日(土)夜@居留守文庫(大阪・文の里)

③「トレブリンカの地獄――20世紀の悲劇」(仮)
8月20日(日)夜@オンガージュ・サロン(大阪・寺田町)
※ ピアノ&クラリネットの演奏つき(予定)

【朗読】
・志賀澤子(東京演劇アンサンブル)
・石田雅章
・宮本 荊(LifeR )
・赤尾光春

【構成】鈴木径一郎(sputnik.)

【演奏】
・呉多美(ピアノ)
・樋上千寿(クラリネット)

【解説】赤尾光春(大阪大学/関西学院大学・非常勤講師)

【ゲスト】検討中

詳細は追ってお知らせいたします。

乞う、ご期待!

(引用終わり)

先日みすず書房より刊行された『トレブリンカの地獄――ワシーリー・グロスマン前期作品集』の中からプロの俳優による朗読会と翻訳者の直立演人こと赤尾さんによるレクチャー、そして3回目の会場では何と劇伴まで入るという実に豪華な会になるようです。

この一連のイヴェントには是非とも顔を出さねばなりません! 作家や詩人の自作自演は言うまでもありませんが、翻訳者による朗読会もまたもっともっと開かれるべきだと思います。音楽や演劇や舞踊と同様に、文学もまた時間芸術の一ジャンルであるということを、わたしたちは下手をすると忘れがちです。とは言え、よくよく考えてみたら、詩歌であれ散文であれ戯曲であれ、文学作品(とされているもの)の字面には西洋音楽で用いられている定量記譜法とは違って、音価や音高や音の相対的強度や速度などは厳格に指定されてはいないものの、字面の配列それ自体がネウマ譜や浄瑠璃における文字譜と胡麻譜のような働きをしているものであると言えましょう。そう考えると、書かれた言葉の朗読もまた時間芸術という観点から捉えるべきでしょう。(ということは、作曲家の自作自演でのように、文学作品の自作自演の場においても自分で書いたはずのものをきちんと朗読し切れないというトホホではあるものの、実に味わい深い事態も普通に起きてしまうという訳です。)

というわけで、わたしもいつかヴァンチュラの『気まぐれの夏』の翻訳を刊行していただけるようにしつつ、このような朗読イヴェントを開催できるよう精進せねばなりませんね。

「快楽差別狂」としてのレイシスト

大阪高裁 「人種差別と女性差別との複合差別」在特会敗訴

至極当たり前としか言えない判決だ。とは言え、原告の李さんだけではなく、日本国内に住む人たち全員に向けて裁判所が良心を示してくれたことを、とても有難く思っている。それにしても、救い難い快楽差別狂である自称桜井誠こと高田誠の名前がなぜこの記事では伏せられているのか、謎である。高田が「日本第一党」なる政治団体まで立ち上げて派手な活動をし始めていることを考えると、もしかすればこの団体の宣伝にならないようにするための措置なのかもしれない。

なお、「快楽差別狂」という言葉は、言うまでもなく「快楽殺人狂」をもじって造語したものである。レイシズムが強姦と同様に「魂の殺人」であるということだけではなく、レイシストたちはあくまでもそうした「魂の殺人」を行うことに快感を覚えているのであって、思想的な主張をしているのではまったくないということをも端的に示すには、ああいうどぎつい言葉で形容してやるのが最も適切だと考えた。レイシストたちがいかに差別を楽しんでいるかについては、YouTubeなどで差別デモに参加している連中の薄ら笑いの醜悪さをご覧になってほしい。(ここには具体的なリンク先は示さない。) もしかすれば差別用語を使うなという批判が出て来るかもしれないが、わたしは差別主義者を差別してはいけないなどと思うようなやさしい人間ではまったくない。レイシストにはとことん冷たくできているので、悪しからず。

2017年6月19日月曜日

「ヴォイニッチ手稿」に関する新説が、さらにもう一つ!

友人から紹介されたチェコの新聞サイトの記事を斜め読みしてみたら、ものすごい内容が書かれていて思わずのけぞってしまった。

「未知の言語で書かれた「ヴォイニッチ手稿」の筆者は、ゲオルク・フォン・リヒ テンシュタインIII世である」

ヴォイニッチ手稿」と言えば、真夜中に一人で見るのは正直怖くて仕方がないという感想がどうしても出て来てしまう。もういい年だというのに、トイレに行くのも怖くなってしまうほどだ。お恥ずかしい話ながら、こういう時にこそ頼もしいお兄さんお姐さんに添い寝をして欲しいと思ってしまうほどだ。それほどの「ビビリ」なのだが、わたしがこうした子どもじみた感想を抱いてしまうのは、延々と文字のような文様と薄気味悪い絵が大量に描かれていて、何らかの意味を感じさせはするものの、具体的には何が書かれているかが皆目分からないからこそであろう。そうした恐怖心もととなっているのはやはり、手稿に延々と記されている謎めいた模様は文字なのか、あるいは文様に過ぎないのか、そしてかりにそれが文字であるとすれば、当の文字を用いて何を書いていたのか、そして一連の文章を書いた筆者が誰なのか——という、ごく基本的な問題に他ならない。人は、たったこれだけのことで訳が分かりそうでまったく分からないと思うものだし、そうした訳が分かりそうで分からないと感じてしまうものには恐怖心を抱いてしまうものなのだ。

あの文字列、あるいは文様は果たして意味を成す言葉なのか、あるいは単なる出鱈目な文字列やイラストレーションの羅列に過ぎないのかという議論が、これまで行われてきた。意味を成す言葉であると提唱する研究者たちは、ある種の人工言語であるという説や、フラマン語に基づくクレオール言語であるという説や、セム語族に属する言語であるという説などをこれまで提唱してきた。最近だと、ロシアの数学者たちが、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そしていくらかのラテン語を混合したものだったのではないかというを提唱した。

一方、この文書の筆者が誰なのかという問題についても、さまざまな議論が行われてきた。ロジャー・ベーコン(1214-1294)やエドワード・ケリー(1555-1597)ではないかという説がしばしば提唱されてきたものの、決定的な答にはいまだ到達していない。

現時点では筆者はいまだに不明ではあるものの、「ヴォイニッチ手稿」が作成された年代を考える重要なヒントとなる研究が2011年にアリゾナ大学の研究者たちが行った。同大学において行われた放射性炭素年代測定からは、手稿において用いられている羊皮紙は1404年から1438年の間に作られたものであることが判明している。当初はヴォイニッチによる捏造ではないかとさえ囁かれていたのだから、この調査によって彼の名誉は完全に回復されたことであろう。

この手稿に関する記事についてはわたしもいろいろと読んできたが、チェコ人による研究の紹介はこれまでまったく読んだことがなかった。しかも、研究史に貴重な一石を投じる解読作業が行われているのだ。さらに言えば、「ヴォイニッチ手稿」に関して読んできたこれまでの記事とは違って、非常に深く内容に踏み込んだものであり、その内容にも相当な説得力があると感じた。そこで、以下では、上記の新聞記事をごく手短に要約・紹介してゆくことにしようと思う(さすがに全訳を公開してしまうと著作権上の問題が生じてしまうので、全訳の掲載はどうかご勘弁していただきたい)。

「ヴォイニッチ手稿」の解読作業を進めているチェコのアマチュアの暗号研究家イレナ・ハンズィーコヴァー Irena Hanzíková 氏は、すでに手稿の約3分の1を解読している。氏によると、この手稿の筆者はトリエント司教も務めたモラヴィア出身の貴族ゲオルク・フォン・リヒテンシュタインIII世 Georg III. von Liechtenstein / Jiří III. z Lichtenštejn(1360-1419)であり、「ヴォイニッチ文字」によって表記されている言語は中世チェコ語(staročeština)であるということを明らかにした。ハンズィーコヴァー氏が解明したところによれば、中世チェコ語の本文を暗号化する際には、全篇を通して同一の方法が採用されているのではなく、つねに変化し続けてゆくとのことだ。つまり、ある部分においては有効であった暗号化の方法が、少し読み進めるととたんに無効になってしまい、別の暗号化の方法が採用されている。そのため、そうした場に遭遇した際には、新たな暗号化の規則を見出して解読を進めてゆく必要に迫られる——というのだ。

こうしたきわめて複雑な暗号化の方法を駆使してゲオルク・フォン・リヒテンシュタインIII世が記そうとしていたのは、日々の内面生活についてであった。神への愛を告白しているくだりが多いことは言うまでもない。だが、この手記においてきわめて特異であるとともに、この記事の中で最も興味深くもあったのは、キリスト教においてはタブーとされている「転生」を他ならぬ神から説かれ、当初は頑として受け入れようとはしなかったものの、次第に転生という考えに魅せられていったというくだりだ。ついには、神への忠義の末に与えられるものとしての転生という考えを受け入れ、心の平安を得るに至る。そして、転生について語る際には、中世の高位聖職者が書いたものとは思えない肉感的な詩句も記している。以下では、記事の中からハンズィーコヴァー氏によって解読された部分を少しだけ紹介しよう。

一度死んでからしばらくすれば、お前は再びこの世へやって来ることになる——というお告げを神から聞いて、筆者は生きる力を得る。さらにこう続ける。
「私は神様からのお告げを敬おうと思います。私は花開く力を得ました。どんなことでも行いたいと思います。もう悩み暮らそうとは思いません……。我が身のすぐそばにある影に次の人生が訪れたと感じたら、主のご意思を通して私が見出すものすべてを熱く伝えてゆこうと思います。私の証言を広めようと思います。『清く生きよ』ということを」。

「忠節の誓い」と銘打たれたくだりでは、次のような内容が謳われている。

「どんなに辛くとも私[ここでは、神]に捧げてくれるお前の忠義を、熱き感情へ変えてやろう。敬愛、尊敬、永遠の愛へ。私を信じよ。幸せなお前が思う存分愛撫されるようにしてやろう……。お前のすぐ近くで待つことで、お前の身を守ってやろう。危険なものがあれば退けて、棘なき道を作ってやろう……」

ハンズィーコヴァー氏がゲオルク・フォン・リヒテンシュタインIII世が自らの手記を「ヴォイニッチ文字」によって暗号化したのは、この「転生」という概念ゆえのことだったのではないか、と推測している。ヤン・フスらが火刑に処せられたりしていた時代に、カトリック教会における高位聖職者の身分にあった者が、異端の教えに魅了されていることを知られてしまうことは、きわめて危険なことであったからだ。確かに、こう考えると、きわめて複雑な暗号化の規則を駆使してでもあのような大規模な手記を残そうとした意思がうまく説明されるように思える。

——上に掲げた記事には、おおよそこのような内容のことが原稿用紙換算で約20枚弱分を費やして書かれている。文化面かくあるべしという、実に面白く、また、この種の話にありがちの下卑た興味本位の目差しとは無縁の、実に真摯な記事でもあった。とは言え、この方による「ヴォイニッチ手稿」の解読作業に妥当性がどれほどあるのかということについては、わたしにはまったく判断できない。解読作業と解読した内容の妥当性はさておき、完全に解読できたら、是非とも中世チェコ語の文へ翻刻したものとその現代チェコ語訳、そして暗号化の規則とその解読の方法について細大漏らさず記した報告書を添えた単行本を是非とも刊行して欲しい! その際には、中世チェコ語の専門家や中世の歴史を専門とする歴史学者、そして暗号学の専門家による検証論文も併録して欲しい。そうすれば、この方の解読作業がどの程度うまくいっているのかということを客観的に判断することができる上に、従来の研究史に巨大な一石を投じることにもなろう。少々高い本になってしまっても、刊行されたらすぐに喜んで購うつもりだ。

2017年5月21日日曜日

「治安維持法」再び!(怒)

「共謀罪」がスムーズに成立する背景

あの連中に投票した馬鹿な有権者を、わたしはとことん軽蔑する。わたしは、博愛主義者ではまったくない。己れの愚かさを反省しない連中には、今も昔もとことん冷たくできている(わたしなんざ、自分の不甲斐無さや馬鹿さを恥じない日など冗談抜きで一日たりともない)。というわけで、GnuPGの使い方に慣れるようにするための準備作業をぼちぼち始めようと思う。メールの検閲はすでに行われているが、郵便物の検閲もそのうち普通にやられるようになるだろうて。

「自分は大丈夫」と思えない者や同調圧力を無視する者たちが真っ先にやられてゆくのだろう。なにせ、少数派や多数派とは毛色の異なる者を「左巻き」などという極めて愚劣な身体的比喩(立派な差別用語である!)をもって馬鹿扱いした上に貶めてしまうことがまかり通っている社会だ。ついでに言うと、ネトウヨどもはこうした差別用語を悪用して、自分たちの気に入らない政権批判をする人たちを「左翼」あるいは「サヨク」呼ばわりするだけでは足りず、十把一からげに「左巻き」呼ばわりさえしている惨状もある。そう考えると、わたしのような根っからのへそ曲がりでもあり、「左巻き」でもある者などは、きわめて危ないことになりかねない。「脱日」や国籍離脱の方法も考えなければならないだろうな。

感謝は自発的にするものである

2分の1成人式、広がる 「感謝の言葉」苦にする子も

「感謝」は、自発的にするものであって周囲に強制されてするものではない。こんな単純なことも分からない自己愛の権化としか言いようのない白痴的な大人が増えてしまっているのだろう。子どもの受難は、続くばかりだ。今の子どもには、ひたすら同情するしかない。かりに両親が揃っていても憎しみの対象でしかないことも十分にあれば、片親しかいない、あるいは両親ともどもいなくなってしまったという子どもだっているだろう。そうした想像力さえも働かない馬鹿な大人が増えてしまっているということなのだろう。

このような気持ちが悪い上に愚劣でもあるイヴェントを開く暇があれば、大人は憎まれようと嫌われようとガキどもに思い切り勉強させてやれってんだ。自分で学び、考え、周囲の人といっしょに生きてゆける人間になれるよう手伝いをすることこそが、大人が子どもにしてやるべき最も大事なことであろうに。

2017年4月9日日曜日

TEAC CD-P800NTのリレー音問題が見事解決!

TEACのネットワークプレーヤ CD-P800NT のファームウェアをアップデートした。ついさっきまでは、同じディレクトリに格納した音源ファイルを連続で演奏させる際には、あるファイルの再生が済んで次のファイルを再生する直前に「カチッ」というリレー音が鳴る上にポーズも入るので、実に欝陶しかった。何も期待せずにファームウェアをアップデートしてみたところ、あの音がものの見事に消えた上に、シームレスな再生も可能となった。実に喜ばしい。

仄聞したところによると、ユーザーのクレームに対してこの音は仕様ですと TEAC は言っていたとのことだ。2015年の時点で書かれたアマゾンのカスタマーレビューにも件のノイズは健在という旨が記されていたので、おそらくは2016年に出された最新のファームウェアで問題の根本的な解決が図られたのだろう(ファームウェアに関する説明には、なぜかこの問題への言及が一切なかった)。ネット上でも件の問題は動画付きで激しく批判されていたのだから、おそらくは電話などでの厳しいクレームもそれなりにたくさんあったものと思われる。

本当はユーザーに対して不手際についてきちんと謝った上でリリースすべきではなかったかと思うので、かなりモヤモヤとしてはいる。とは言え、あのプレーヤを使う上での最大のネックが解決されたことは、本当に良かった。粗大ゴミにせずに済んだどころか、この問題がなくなってNASに溜め込んだ音楽を普通に気軽に流して楽しめるようになった上に、このプレーヤを他の人にもようやく素直に勧められるようになったのも、実に喜ばしいことだ。

時代に取り残された老害、筒井康隆

筒井康隆氏、慰安婦像への侮辱促す? 「炎上狙った」
じゃあツイートを消すな、堂々と残しておけバカ、の一言だ。件の消されたツイートが具体的にはいかなるものだったのかを知りたい方には、この方のツイート筒井氏の公式ウェブサイトを読んでいただきたい。
わたしは、中高生の頃に氏の短編小説や長編小説をいくつも読んで大いに楽しませてもらった。ブラックユーモアに満ち溢れたドタバタコメディの短篇を書く力や、言語実験を駆使しつつも澱みなく読めるエンタメ小説を仕立て上げてしまう手腕には、ものすごいものがあると今でも思う。そしてまた、もともと俳優を志していたというだけあって、自作の朗読も実にうまい。氏の名前と作品群の双方がこれからも残ってゆくかどうかは、わたしには正直分からない。だが、あの下劣極まりない発言だ。人としては、この御仁はしょせんはこの程度の底の浅いクズだということを如実に示している。
誤解していただきたくはないが、わたしは今回の愚昧な発言によって筒井氏の作品が封印されるべきであるとはまったく思っていない。この国では、作家と作品とが一直線に結び付けられがちである上に、作家や思想家が聖人君子であるべきであるなどと考えられがちだ(こうした思考が当たり前のものになってしまっているのは、文学をダシにした道徳教育でしかない「国語」教育を十代のうちに学校教育において仕込まれてしまった成果なのであろう)。だが、実際には、作家の実生活における出来事と当の作家が作り上げた世界とは、単純に「一対一対応」させてしまえるものでは決してない。また、洋の東西を問わず、優れた芸術作品や思想を世に問うた人間の多くが人格破綻者であったということを示すエピソードは、枚挙にいとまがない。だからこそ、作家や思想家が不祥事をしでかしたからと言って、作品を絶版にせよだとか、はたまた焚書にせよなどというのは、馬鹿げているとしか言いようがない。そのようなことを実際にやってしまっていたとすれば、文学者で言えばドストエフスキーや澁澤龍彦や井上ひさし、思想家だとルソーやマルクス、そして作曲家だとワーグナーやドビュッシーやスクリャービンなどといった、「どうしようもなく品性下劣なクズども」がものした優れた作品の数々は、今日のわたしたちにはまったく拝めなくなってしまっていたことであろう(今列挙した人たちの所業については、ウェブで適宜検索されたい。目を覆わんばかりの蛮行に満ち溢れている)。
とは言え、これまでに発表された作品が素晴らしいからと言って、当の作品の作者の愚かな言動が免罪されるとも思わない。作品の質とは別に、愚かな言動をしでかせばその場で当人をきちんとたしなめれば良い。それ以上でもなければ、それ以下でもない。だからこそ、氏の品性下劣な発言はどんどん批判されて然るべきなのだ。いっそのこと、かつて果たせなかった「断筆」を今度こそ実現されれば良いのに、とさえ思っている。