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【書き仕事】東京交響楽団の新潟定演のための解説を書きました

ヤナーチェク:シンフォニエッタ

わたしは、上記プログラムによる24日に開催される新潟での公演のための解説を担当しました。川崎においても、また新潟においても、強烈至極なトランペット祭りが繰り広げられることと思います。演奏会の前半では、ドヴォジャークの交響曲第9番『新世界より』が演奏されます。このような野心的なプログラムに組み込まれているのですから、この交響曲の演奏も「通俗名曲」のイメージを間違いなく完膚無きまでにぶち壊してくれる名演になるかと思います(ドヴォジャークのこの曲には、ボヘミアに帰ってから書いた一連の交響詩やオペラでの「大暴れっぷり」を予告する実験的な要素がふんだんにあります。特に、今年の11月に日生劇場で上演されるオペラ『ルサルカ』には、この交響曲で用いられている手法が随所に現れてきます)。

こぼれ話を少ししておきますと、演目の「トリ」であるヤナーチェクの『シンフォニエッタ』と同様に金管のバンダが大暴れするケルシェック氏の新曲にはまだ音源がないために、スコアリーディングだけを頼りにして音像を頭の中で妄想リアライゼーションをさせつつ、ケルシェック氏ご本人にメールで質問したことがらに関する回答をも盛り込んだ解説を準備しました。正直、ものすごく大変な作業でしたが、とてもいい勉強になりました。

そんなことはともかく、スコアを読んでいただけでも、氏の曲は超絶技巧が炸裂したノリノリのエンタメ名曲に仕上がっていることが分かります。前半では1980年代あたりのゲソオソ業界でよく流行った無調と調性との間をたゆたう感じのやや晦渋な感じがする音が鳴り響くのですが(個人的な印象ですが、あの頃のペンデレツキの曲のサウンドを彷彿とさせます)、いわゆるゲソオソではないので、「通」のお客さんではなくとも素直に楽しめると思います。スコアリーディングとの「答え合わせ」と洒落込んでわたしも聴きに行きたいのですが、あいにく両方の公演の日に仕事が入ってしまっているので聴きに行くことができません。本当に無念です! ご都合の合う方は、是非とも聴いてみてください!

文章を書くことの重みを踏みにじった者の罪

「嫌韓」「反日」の記事を書けば800円。政治系ブログ作成の求人が掲載中止に

子どもに言葉を教えたり、専門に近いところでは音楽に関する文章を書いたり、声楽家に原語指導などをすることによってお金をいただいている者から見ると、こいつらは文章を書くという行為の大変さと尊さについてまったく理解していないどころか、まったくしたくないという、どうしようもなく下卑た連中だとしか思えない。これは、求人をした側だけが悪いということでは決してない。言うまでもなく、求人をした側の罪の大きさにははかり知れないものがある。だが、このような仕事を唯々諾々と請け負った側の罪もまた甚大なるものであり、決して免責されるものではない。両者に対して、わたしは激しい怒りを禁じ得ない。まとまった内容を持った文章を書くという行為とその価値を貶めたのみならず、このようなゴミクズを安価な値段で大量生産させた結果、日本語圏のネット、ひいては日本社会を劣化させることに貢献したからだ。この点においても、求人した連中と仕事を請け負った側の双方は万死に値する——と、わたしは思わずにはおれない。個々人の政治的な立場を表明することはもちろん自由だし、大いになされるべきことであろう。この世で生き伸びてゆこうと思えば、どんなかたちであれ政治と関わらずに済ませることができないという意味で、生きることとは政治的な行為なのだから。だがしかし、事実をきちんと精査した上で論評を加えるべしという、他人様に向けて文章を書く者にとってはごくごく当たり前のルールを軽視、いや蹂躙する者たちが吐き出した文字列などに、いったいどのような価値があると言うのだろうか。この国の言論を立て直そうとすれば、小手先のテクニックに頼ることなくこうした基本的なところに立ち戻らなければならないのであろう。そうしようと思うと、結局のところは教育の問題に行き着いてしまうのだ。

「音楽には音楽を!」——あるいは、後進を指導する者に必要とされるもの——

日野皓正氏、中学生の髪つかみ往復ビンタ「ソロパートが長くなりすぎたので」

文春のサイトに決定的な場面を録画したものがアップロードされていたので見てみたが、確かにドラムの子がノリノリになり過ぎていて誰にも止められないという状態になっていた。だが、いくら何でもああいう止め方は良くなかったと思う。「往復ビンタ」と形容すべきレヴェルのものではなく、単に頬に手を触れる程度のものだったのかは、あの動画からではこちらには分からない。だが、程度の問題を取り上げて日野氏が取った行動を全面的に正当化したり、あの子を一方的に責めたりすることは、絶対に良くない。ましてや、あの子が暴走したことを「甘えだ!」だとか「わがままを認めるな、規律に従え!」などといった言葉であの子を一方的に攻撃することなど論外中の論外である。また、「喧嘩両成敗」あるいは「どっちもどっち」という話に落とし込むのも、やはり間違っている。あの映像の内容とこのコンサートが義務教育における教育活動の一環であったということの双方に鑑みると、氏が全面的に間違っていたとしか言えない。むしろ、氏は誰もが認める百戦錬磨の音楽家なのだから、「目には目を」ならぬ「音楽には音楽を!」という方針を完徹すべきではなかったか。強烈な即興演奏をあの子の目の前でぶちかましてあの子の悪ノリを止めさせるとともに、舞台に上がった中学生全員は言うまでもなくコンサートに来て下さったお客さんをも大喜びさせるという、きわめて音楽的な——それこそではないが、ジャズの醍醐味を十二分に発揮した——教育的指導こそが必要だったのではなかろうか。

もしかすれば、氏は子どもといっしょに音楽をすることに不慣れで、それこそではないがあの子が悪ノリしてしまうという事態が「想定外」のことがらでもあったゆえに、氏自身もあの場に出くわして気が動転してしまったのかもしれない。しかしながら、練習の段階では大丈夫ではあっても本番の舞台に上がった際には自分の世界に入ってしまって制御不能状態に陥るというのは、子どもに限らずある程度音を出せる段階に入って音楽する快感を全身で感じられるようになった者には一度や二度は必ず起きてしまうことだ(かくいうわたしも、そういうことを経験してきた)。それこそではないが、悪ノリは音楽家としての成長への一過程であると言っても過言ではない。だからこそ、ああいう野暮な手段に訴え…

ワシーリー・グロスマンの作品朗読会へ行って来た(あるいは、通俗上等!)

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昨日(2017年8月20日)は、ワシーリー・グロスマンの短編作品「老教師」とルポルタージュ「トレブリンカの地獄」、それから代表作である長編小説『人生と運命』からの抜粋の朗読をオンガージュ・サロンヘ聴きに行って来た。一言では言い表せない、実に見事な朗読会であった。行く前から予想はしていたものの、やはりナチの絶滅強制収容所について告発した「トレブリンカの地獄」の朗読が圧巻だった。近代的な理性の最終到達点としての絶滅強制収容所が持つ限りのない凄惨さ、そして加害者に対する猛烈なまでの怒りと被害者に対する思いの深さに言葉を失った。オルケステル・ドレイデルの樋上さんによるクラリネット、そしてピアノ伴奏の呉さんによる幕間のクレズマーの演奏も素敵だった。

グロスマンの文章は、先日購った短篇集をまだちびちびと拾い読みしているに過ぎない状態であるものの、文章の重みに圧倒される。とは言え、反発も覚えたというのも、嘘偽りのない感想である。ナチのものであれソ連のものであれ、強制収容所での生活を経験した作家の手になる文章をすでにいくつも読んでいたということも、もちろんある。だが、わたしは第三者による「表象不可能性」といった、ありがちな言説に与しようとは思わない。そんなことを言ってしまったら、文学であれ美術であれ音楽であれ何であれ、作品の創作などそもそも不可能となってしまって、芸術や芸術家など社会には無用だから絶滅させてしまえということになってしまうこととなろう。芸術ジャンルを問わず、見て来たような嘘をお客さんについて木戸銭をいただくことこそが作家渡世であるはずだ。だから、自分もまた非当事者であるはずなのにその事実を綺麗さっぱり棚に上げた上で、あの手の物言いをしたり顔で振り回して、非当事者がホロコーストやジェノサイドを扱った創作を行うことそれ自体を頭ごなしに否定する連中には、「おーまーえーはーあーほーかー!」という言葉を投げ付けてやろうと思う。オスカー・ワイルドではないが、よく書けているかどうかこそが重要であるはずだ。グロスマンの作品にわたしが抱いた反発は、そのような問題ゆえではない。

わたしが最も反発を覚えてしまったのは、話の「クサさ」、あるいは「通俗性」に他ならない。あまりにも話が「でき過ぎている」上に、感動を強要されるような感じがするところが嫌らしいと思ってしまったのだ。しかし、よく考…

【雑記】研究は何のためのものなのか

強制わいせつ未遂の疑い、東京大学大学院生を逮捕

以前にもここに書き散らしたことと同じ内容の文言を繰り返してしまって恐縮なのだが、こういう屑は古代中国式の宮刑に処せられるべきである。当時のやり方に則って執行されると死ぬ確率が高いので、司法関係者には当時の当地で行われていたと言われている宮刑の導入を是非ともおすすめする。

それはともかく、しがないとは言え、わたしもいちおうは研究者のはしくれでもあるので、そうした観点からこの事件についての感想を手短に述べておくと、「堅苦しい研究から逃げる」ことなんか、簡単の極みである——という一言に尽きる。「堅苦しくない研究」をするか、あるいは研究そのものから逃げたいのだったら大学院生の身分を即刻放棄して就職活動や起業でもすれば良かったはずだ。哲学や美学や倫理学などの思想や、文学や美術や音楽や演劇などの芸術といった、人文学の中でも最右翼、あるいは友人が戯れに思い付いた「人文系極右」という言葉ででも形容せざるを得ない、「穀潰し」、「役立たず」、「ダメ人間」あるいは「社会不適合者」の烙印を即座に押されてしまうような分野の専門家でもないのだから、専門の知識を生かして民間のシンクタンクなどで働いていた経験を大々的にアピールすれば、知識集約型産業に潜り込んで十分に食っていけたことだろうに。

だが、わたしにとっては、彼が取るべきであった進路についての話など、正直どうでも良い。勝手にしやがれの一言だ。こちらにとって聞き捨てならなかったのはむしろ、一連の性犯罪に走った経緯に関する彼の言葉である。「スリルや背徳感を求め」るために性犯罪に走ることでしか「堅苦しい研究から逃げる」ことができなかったという言葉が、本当に彼の口から発せられていたとしよう。そうすると、この彼は自分が取り組んできた研究や研究対象を心底好きであったことはおろか、研究対象に対して敬意を表することさえもなかったのかもしれない——ということが考えられてしまう。換言すると、長年携わっていた研究が、単に自分の身の栄達、あるいは自己保身のためにしかなされなかったのかもしれないのだ。そう考えると、ある意味ではこの御仁もまた実に哀れな存在なのかもしれない。自分の中から湧いてきた、止むに止まれぬ興味や関心の赴くままに「研究」などという大変にストレスが溜まる作業に勤しんでいたのではないということなのだから…

のぶおくんは今日も安定運行、あるいは文学部出身者をなめんなバカ!

マスコミを極左化させる「文学部バイアス」

文学部出身者のみなさん、のぶおくんによれば文学部出身者には独特なバイアスがかかっているらしいですよー! お互い気を付けましょう!

それはともかく、たったこれだけの短い文章の中で、のぶおくんが考える「極左」と「左翼」との違いが何なのかまったく分からないという、実に滑稽なことになってしまっている。「極左化した」ワイドショーのコメンテーターが奉じているのは「昔の極左暴力主義」ではないと言ったのちに、「社会党の「非武装中立」のような日本独特のガラパゴス平和主義」と定義し直している。ここからは、この種の平和主義こそがのぶおくんにとっての「極左化」の背景にある「極左」という概念が意味する内容なのであろうことが推測される。だが、基本的に「極左」とされる政治団体や活動家は、マルクスの思想やそこから派生した共産主義思想、あるいはアナキズムの思想を奉じるとともに、自らの政治的な理念を実現させるためならばテロリズムなどの非合法の暴力行為に訴えてでも現在の政府を転覆させることをも良しとしているものではなかったのか。ところが、彼が「極左」呼ばわりしようとしている(らしい)「「非武装中立」のような日本独自のガラパゴス平和主義」なるものを文字通り解釈すれば、こうした考えを奉じている人や団体は、自身の目的を遂行するために国家に対して非合法の暴力行為をふるうことを良しとはしないはずだ。むしろ本物の「極左」から見れば、こうした考えを奉じる者たちはぬるま湯につかった「右翼の日和見主義者」でしかなかろう。のぶおくんが考えているであろう「極左」と「極左」という言葉に関する一般的な意味合いとをこんな感じでちょっと比べてみただけでも、矛盾だらけであることが露呈してしまう。

とまあ、のぶおくんのこの文章での物言いのおかしさを理解するには、別に安全保障やマスコミ研究、あるいは政治思想史の専門家である必要などまったくない。それこそではないが、言葉の真の意味での事物についての「批判的」な認識を基盤とする、文学部で行われているさまざまな学問の方法論に関する知識と実践の経験——友人が戯れに思い付いた「文学部パワー」という言葉を借用しても良かろう——さえあれば、鼻クソをほじったりビールを飲んだりしながらでもすぐに分かってしまうし、今ご覧になっているような駄文もいとも簡単に書けてしま…

Vydal monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád!

Boris Blahak, Franz Kafkas Literatursprache Deutsch im Kontext des Prager Multilingualismus

Jsem velice šťastný tím, že jsem si uvědomil toho, že vydal svou monografii o Kafkově literárním jazyce můj milý kamarád Boris, jenž učil němčinu na pedagogické fakultě Masarykovy univerzity v Brně během mého studijního pobytu v 2001-3 a je ke mně od té doby stále nesmírně laskavý. Nikdy nezapomenu, jak mě uklidňoval, kdykoliv bylo mi smutno tím, že na ulicích mne uráželi jen proto, že jsem "žlutá opice" z Asie. Rád bych si proto koupil exemplář jeho knihy, ačkoliv jsem velmi špatný čtenář německých textů vůbec! Dejte mi vypít, abych ho oslavil!