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【イヴェントのお知らせ】朗読&トーク・イベント 「ワシーリー・グロスマンの夕べ」

朗読&トーク・イベント 「ワシーリー・グロスマンの夕べ」

これは是非とも顔を出さねばなりません! 作家や詩人の自作自演は言うまでもありませんが、翻訳者による朗読会もまたもっともっと開かれるべきだと思います。音楽や演劇や舞踊と同様に、文学もまた時間芸術の一ジャンルであるということを、わたしたちは下手をすると忘れがちです。とは言え、よくよく考えてみたら、詩歌であれ散文であれ戯曲であれ、文学作品(とされているもの)の字面には西洋音楽で用いられている定量記譜法とは違って、音価や音高や音の相対的強度や速度などは厳格に指定されてはいないものの、字面の配列それ自体がネウマ譜や浄瑠璃における文字譜と胡麻譜のような働きをしているものであると言えましょう。そう考えると、書かれた言葉の朗読もまた時間芸術という観点から捉えるべきでしょう。(ということは、作曲家の自作自演でのように、文学作品の自作自演の場においても自分で書いたはずのものをきちんと朗読し切れないというトホホではあるものの、実に味わい深い事態も普通に起きてしまうという訳です。)

というわけで、わたしもいつかヴァンチュラの『気まぐれの夏』の翻訳を刊行していただけるようにしつつ、このような朗読イヴェントを開催できるよう精進せねばなりませんね。

「快楽差別狂」としてのレイシスト

大阪高裁 「人種差別と女性差別との複合差別」在特会敗訴

至極当たり前としか言えない判決だ。とは言え、原告の李さんだけではなく、日本国内に住む人たち全員に向けて裁判所が良心を示してくれたことを、とても有難く思っている。それにしても、救い難い快楽差別狂である自称桜井誠こと高田誠の名前がなぜこの記事では伏せられているのか、謎である。高田が「日本第一党」なる政治団体まで立ち上げて派手な活動をし始めていることを考えると、もしかすればこの団体の宣伝にならないようにするための措置なのかもしれない。

なお、「快楽差別狂」という言葉は、言うまでもなく「快楽殺人狂」をもじって造語したものである。レイシズムが強姦と同様に「魂の殺人」であるということだけではなく、レイシストたちはあくまでもそうした「魂の殺人」を行うことに快感を覚えているのであって、思想的な主張をしているのではまったくないということをも端的に示すには、ああいうどぎつい言葉で形容してやるのが最も適切だと考えた。レイシストたちがいかに差別を楽しんでいるかについては、YouTubeなどで差別デモに参加している連中の薄ら笑いの醜悪さをご覧になってほしい。(ここには具体的なリンク先は示さない。) もしかすれば差別用語を使うなという批判が出て来るかもしれないが、わたしは差別主義者を差別してはいけないなどと思うようなやさしい人間ではまったくない。レイシストにはとことん冷たくできているので、悪しからず。

「ヴォイニッチ手稿」に関する新説が、さらにもう一つ!

友人から紹介されたチェコの新聞サイトの記事を斜め読みしてみたら、ものすごい内容が書かれていて思わずのけぞってしまった。

「未知の言語で書かれた「ヴォイニッチ手稿」の筆者は、ゲオルク・フォン・リヒ テンシュタインIII世である」

ヴォイニッチ手稿」と言えば、真夜中に一人で見るのは正直怖くて仕方がないという感想がどうしても出て来てしまう。もういい年だというのに、トイレに行くのも怖くなってしまうほどだ。お恥ずかしい話ながら、こういう時にこそ頼もしいお兄さんお姐さんに添い寝をして欲しいと思ってしまうほどだ。それほどの「ビビリ」なのだが、わたしがこうした子どもじみた感想を抱いてしまうのは、延々と文字のような文様と薄気味悪い絵が大量に描かれていて、何らかの意味を感じさせはするものの、具体的には何が書かれているかが皆目分からないからこそであろう。そうした恐怖心もととなっているのはやはり、手稿に延々と記されている謎めいた模様は文字なのか、あるいは文様に過ぎないのか、そしてかりにそれが文字であるとすれば、当の文字を用いて何を書いていたのか、そして一連の文章を書いた筆者が誰なのか——という、ごく基本的な問題に他ならない。人は、たったこれだけのことで訳が分かりそうでまったく分からないと思うものだし、そうしたものに単純に恐怖心を抱いてしまうものなのだ。

あの文字列あるいは文様は果たして意味を成す言葉なのか、あるいは単なる出鱈目な文字列の羅列に過ぎないのかという議論が、これまで行われてきた。意味を成す言葉であると提唱する研究者たちは、ある種の人工言語であるという説や、フラマン語に基づくクレオール言語であるという説や、セム語族に属する言語であるという説などをこれまで提唱してきた。最近だと、ロシアの数学者たちが、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そしていくらかのラテン語を混合したものだったのではないかというを提唱した。

一方、この文書の筆者が誰なのかという問題についても、さまざまな議論が行われてきた。ロジャー・ベーコン(1214-1294)やエドワード・ケリー(1555-1597)ではないかという説がしばしば提唱されてきたものの、決定的な答にはいまだ到達していない。

筆者はいまだに不明ではあるものの、「ヴォイニッチ手稿」が作成された年代を考える重要なヒントとなる研究が2011年にアリ…

「治安維持法」再び!(怒)

「共謀罪」がスムーズに成立する背景

あの連中に投票した馬鹿な有権者を、わたしはとことん軽蔑する。わたしは、博愛主義者ではまったくない。己れの愚かさを反省しない連中には、今も昔もとことん冷たくできている(わたしなんざ、自分の不甲斐無さや馬鹿さを恥じない日など冗談抜きで一日たりともない)。というわけで、GnuPGの使い方に慣れるようにするための準備作業をぼちぼち始めようと思う。メールの検閲はすでに行われているが、郵便物の検閲もそのうち普通にやられるようになるだろうて。

「自分は大丈夫」と思えない者や同調圧力を無視する者たちが真っ先にやられてゆくのだろう。なにせ、少数派や多数派とは毛色の異なる者を「左巻き」などという極めて愚劣な身体的比喩(立派な差別用語である!)をもって馬鹿扱いした上に貶めてしまうことがまかり通っている社会だ。ついでに言うと、ネトウヨどもはこうした差別用語を悪用して、自分たちの気に入らない政権批判をする人たちを「左翼」あるいは「サヨク」呼ばわりするだけでは足りず、十把一からげに「左巻き」呼ばわりさえしている惨状もある。そう考えると、わたしのような根っからのへそ曲がりでもあり、「左巻き」でもある者などは、きわめて危ないことになりかねない。「脱日」や国籍離脱の方法も考えなければならないだろうな。

感謝は自発的にするものである

2分の1成人式、広がる 「感謝の言葉」苦にする子も

「感謝」は、自発的にするものであって周囲に強制されてするものではない。こんな単純なことも分からない自己愛の権化としか言いようのない白痴的な大人が増えてしまっているのだろう。子どもの受難は、続くばかりだ。今の子どもには、ひたすら同情するしかない。かりに両親が揃っていても憎しみの対象でしかないことも十分にあれば、片親しかいない、あるいは両親ともどもいなくなってしまったという子どもだっているだろう。そうした想像力さえも働かない馬鹿な大人が増えてしまっているということなのだろう。

このような気持ちが悪い上に愚劣でもあるイヴェントを開く暇があれば、大人は憎まれようと嫌われようとガキどもに思い切り勉強させてやれってんだ。自分で学び、考え、周囲の人といっしょに生きてゆける人間になれるよう手伝いをすることこそが、大人が子どもにしてやるべき最も大事なことであろうに。

TEAC CD-P800NTのリレー音問題が見事解決!

TEACのネットワークプレーヤCD-P800NTのファームウェアをアップデートした。ついさっきまでは、同じディレクトリに格納した音源ファイルを連続で演奏させる際には、あるファイルの再生が済んで次のファイルを再生する直前に「カチッ」というリレー音が鳴る上にポーズも入るので、実に欝陶しかった。何も期待せずにファームウェアをアップデートしてみたところ、あの音がものの見事に消えた上に、シームレスな再生も可能となった。実に喜ばしい。

仄聞したところによると、ユーザーのクレームに対してこの音は仕様ですとTEACは言っていたとのことだ。2015年の時点で書かれたアマゾンのカスタマーレビューにも件のノイズは健在という旨が記されていたので、おそらくは2016年に出された最新のファームウェアで問題の根本的な解決が図られたのだろう(ファームウェアに関する説明には、なぜかこの問題への言及が一切なかった)。ネット上でも件の問題は動画付きで激しく批判されていたのだから、おそらくは電話などでの厳しいクレームもそれなりにたくさんあったものと思われる。

本当はユーザーに対して不手際についてきちんと謝った上でリリースすべきではなかったかと思うので、かなりモヤモヤとしてはいる。とは言え、あのプレーヤを使う上での最大のネックが解決されたことは、本当に良かった。粗大ゴミにせずに済んだのだから。

時代に取り残された老害、筒井康隆

筒井康隆氏、慰安婦像への侮辱促す? 「炎上狙った」
じゃあツイートを消すな、堂々と残しておけバカ、の一言だ。件の消されたツイートが具体的にはいかなるものだったのかを知りたい方には、この方のツイート筒井氏の公式ウェブサイトを読んでいただきたい。
わたしは、中高生の頃に氏の短編小説や長編小説をいくつも読んで大いに楽しませてもらった。ブラックユーモアに満ち溢れたドタバタコメディの短篇を書く力や、言語実験を駆使しつつも澱みなく読めるエンタメ小説を仕立て上げてしまう手腕には、ものすごいものがあると今でも思う。そしてまた、もともと俳優を志していたというだけあって、自作の朗読も実にうまい。氏の名前と作品群の双方がこれからも残ってゆくかどうかは、わたしには正直分からない。だが、あの下劣極まりない発言だ。人としては、この御仁はしょせんはこの程度の底の浅いクズだということを如実に示している。
誤解していただきたくはないが、わたしは今回の愚昧な発言によって筒井氏の作品が封印されるべきであるとはまったく思っていない。この国では、作家と作品とが一直線に結び付けられがちである上に、作家や思想家が聖人君子であるべきであるなどと考えられがちだ(こうした思考が当たり前のものになってしまっているのは、文学をダシにした道徳教育でしかない「国語」教育を十代のうちに学校教育において仕込まれてしまった成果なのであろう)。だが、実際には、作家の実生活における出来事と当の作家が作り上げた世界とは、単純に「一対一対応」させてしまえるものでは決してない。また、洋の東西を問わず、優れた芸術作品や思想を世に問うた人間の多くが人格破綻者であったということを示すエピソードは、枚挙にいとまがない。だからこそ、作家や思想家が不祥事をしでかしたからと言って、作品を絶版にせよだとか、はたまた焚書にせよなどというのは、馬鹿げているとしか言いようがない。そのようなことを実際にやってしまっていたとすれば、文学者で言えばドストエフスキーや澁澤龍彦や井上ひさし、思想家だとルソーやマルクス、そして作曲家だとワーグナーやドビュッシーやスクリャービンなどといった、「どうしようもなく品性下劣なクズども」がものした優れた作品の数々は、今日のわたしたちにはまったく拝めなくなってしまっていたことであろう(今列挙した人たちの所業については、ウェブで適宜…